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2020年7月5日日曜日

あたしは神よ


マダム・エドワルタの声は、きゃしゃな肉体同様、淫らだった。「あたしのぼろぎれが見たい?[Tu veux voir mes guenilles ? ]」両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女ほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は方脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろきれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸 [velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante]。おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりかね。」「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」「おれは気でも狂ったのか……」「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」(ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダMadame Edwarda』1937年)

愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る[Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire]。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」(マルグリット・デュラス『死の病 La maladie de la mort』1981年)

人はみなよく知っている。神を信じる人すべてにとって、神は何を表象するのか、彼らにとって神はどんな置を占めているかを。そしてその場から神のペルソナを消去しても、何かが残る。空虚の場が。私が語りたかったのは、この空虚の場です。

tout le monde sait très bien ce que représente Dieu pour l’ensemble des hommes qui y croient, et quelle place il occupe dans leurs pensées, et je pense en supprimant le personnage de Dieu à cette place-là, il reste tout de même quelque chose, une place vide. C’est de cette place vide que j’ai voulu parler. (ジョルジュ・バタイユとマドレーヌ・シャプサルMadeleine Chapsal et Georges Bataill、1961年)

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン, S23, 16 Mars 1976)

………………

◼️ヴェールは神である
ヴェールは無から何ものかを創造する[le voile crée quelque chose ex nihilo]。ヴェールは神である[Le voile est un Dieu]。(J.-A. Miller, 享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE 1994年)

◼️女は無を覆うヴェールである
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien(J.-A. Miller, Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)
女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

◼️ヴェールが落ちるとブラックホールが現れる
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)

◼️真の女は常にブラックホールである
真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée.(J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
このS(Ⱥ) は、斜線を引かれた女性の享楽を示している。ce S(Ⱥ) je n'en désigne  rien d'autre que la jouissance de LȺ femme (ラカン, S20, 13 Mars 1973)
大他者の中の穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す。signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)
あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)


ゴダール『(複数の)映画史』「1A」


◼️ あらゆる天使は恐ろしい
美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称賛するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。
Denn das Schöne ist nichtsals des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen, und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht, uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich. (リルケ「ドゥイノ・エレギー」古井由吉訳)
美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)



私の見解では、セクシャリティ自体の領野において不快の独立した源泉がある。Meine Meinung ist, es muss eine unabhängige Quelle der Unlustentbindung im Sexualleben geben.(Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 171, Manuskript K、1896)
こう言うと奇妙にきこえるかもしれないが、性欲動の本性そのもののなかに、その完全な満足達成を阻もうとするような何かがふくまれている、と私は考えている。Ich glaube, man müßte sich, so befremdend es auch klingt, mit der Möglichkeit beschäftigen, daß etwas in der Natur des Sexualtriebes selbst dem Zustandekommen der vollen Befriedigung nicht günstig ist. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。

この理由で、セクシュアリティは、つねに魅惑と戦慄 [fascinans et tremendum]、つまりエロスとタナトスの混淆(融合と分離の混淆ーー欲動混淆Triebentmischung)なのである。これが明らかにすることは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを憧憬する。つまり享楽の原状態 [original condition of jouissance ]の回帰憧憬である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)






ヒステリーは、原初の不快の経験を必ず前提とする。この不快の経験は受動性である。女性における自然な性的受動性は、ヒステリーに導かれる傾向を説明する。私が男にヒステリー を見出だすとき、そこにありあまるほどの性的受動性を立証しうる。Die Hysterie setzt notwendigerweise ein primäres Unlusterlebnis also passiver Natur voraus. Die natürliche sexuelle Passivität des Weibes erklärt die Bevorzugung desselben für die Hysterie. Wo ich Hysterie bei Männern fand, konnte ich ausgiebige sexuelle Passivität. (フロイト、フリース宛書簡 Briefe an Wilhelm Fließ, Dezember 1895)
不安は原初に快の源泉であった何ものかに起源がある。この快はラカンの「大他者の享楽」用語にて理解されなければならない。すなわち大他者の享楽の受動的対象としての子供の不安である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)


分析経験は、しばしばなされる次の主張の全き真理を我々に確信させれくれる。すなわち「子供は成人の心理学的な父である[das Kind sei psychologisch der Vater des Erwachsenen]」。幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。(フロイト『精神分析概説』第7章草稿、死後出版1940年)
(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


2019年4月1日月曜日

たまったもんじゃない

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
私はラメラ lamelle について話そう。…

新生児になろうとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに、何ものか quelque chose がそこから飛び去るのだと、すこし想像してみよう。この何ものかというのは、卵からも、また人間 homme からもできるもの、すなわち、オムレットhommelette、あるいはラメラlamelle である。

ラメラlamelle、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動する se déplacer 。ただし、アメーバよりはもう少し複雑である。しかし、それはどこへでも通って行く ça passe partout 。そして、それは、有性生物がその性 sexualité において喪ったものと関係を持つ何ものかであるために ... 、丁度アメーバが有性生物に比べてそうであるように、 不死 immortel なのである。 なぜなら、 それça はあらゆる分裂divisionをこえて生き残るからであり、あらゆる分裂増殖の介入をこえて存続するからだ。そして、それça は駆け巡る。

いやはや、それça は心穏やかなものではない(たまったもんじゃない)。あなた方が静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うことを考えてもごらんなさい。  

こんな性質を持ったものとどうしたら闘わないで済むものか私にはよく分からない。でもそんなことになったら、それは容易な闘いではないだろう。

このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが ... 、 それはリビドー libidoである。  

これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)ものである。

対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。

乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)
リビドーとは、このラメラである La libido est cette lamelle。それは、有機体としての存在 l'être de l'organismeを真の限界に導く。その限界は、身体の限界を遥かに超えている。…

ラメラは器官organeであり、有機体の道具 instrument de l'organismeである。それはときに、ほとんど容易に感受される。ヒステリー者が、その柔軟性を徹底的に試みて上演するとき。quand l'hystérique joue à en éprouver à l'extrême l'élasticité.(ラカン、E848、1964年)

⋯⋯⋯⋯


ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

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最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

⋯⋯⋯⋯

原ナルシシズムnarcissisme primaireの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller、Introduction à l'érotique du temps、2004)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


いやあボクはこればっかり書いてるのにな。かなりひどい高所恐怖症ともくり返しているし。

自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)






「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、,La logique de la cure、1993)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)


だいたいボクがエロを書いたり、ときにエロ画像を貼り付けるのは、草間彌生の「去勢の去勢」戦略の類似現象なんだけどな




・芸術がメドゥーサの髪の毛を多数の蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。注目すべき事実は、それら自体がいかに恐ろしいものでも、実際は「恐怖の緩和」として役立っていることである。なぜなら、恐怖の原因であるペニスの不在をペニスに置き換えているためである。

・我々はラブレーの作品に、女にヴァギナを見せつけられた悪魔は退散していることを読むことができる。(フロイト『メドゥーサの首』草稿、1922年執筆、1940年死後出版)
…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

2018年3月23日金曜日

ブラックホールの映像作家ヒッチコック

ヒッチコックの染み(眼差し=対象a)は母なる超自我 maternal superego (S(Ⱥ))を物質化している。(ジジェク『斜めから見る』)



母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)




母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における純粋で単純な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)




母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

ーーS(Ⱥ) 、すなわち穴Ⱥのシニフィアンである。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)




ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ーー《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。》(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

⋯⋯⋯⋯

イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

ミレールがここで言っている対象aは見せかけ semblant としての対象aではなく、《対象aは、大他者自体の水準において示されるである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel》 (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

他方、見せかけとしての対象aとはイマージュに近似する。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

《対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。》(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

⋯⋯⋯⋯

ボクは高所恐怖症でね、

……外部(現実)の危険は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この文に註がついている。

※註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実の不安に幾分か欲動の不安がさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動の要求は、自分自身にむけられた破壊欲動であるマゾヒスム的欲動であるかもしれない。おそらくこの添加物によって、不安反応が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺し、脱落する場合が説明されるだろう。高所恐怖症(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近いものである。(同『制止、症状、不安』)

《マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus 》(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)=ー享楽という原マゾヒズム)

⋯⋯⋯⋯

昨晩、ゴダールの『(複数の)映画史』を眺めていたんだけど、こんな映像に行き当たるだけで、10分ぐらいは足が震えて冷や汗が出てしまうタイプなんだ。だからヒッチコックの映像の隠された意味合いがよく分かるという「錯覚に閉じこもる」ことができるよ。




最も愛された子供は、いつの日か不可解にも母が落ちるにまかせる子供であるl'enfant le plus aimé, c'est justement celui qu'un jour elle a laissé inexplicablement tomber …あなたがたは知っているだろう、ギリシャ悲劇において…我々はジロドゥーの洞察を見逃し得ない…これが、クリテムネストラ Clytemnestra についてのエレクトラ Electra の最も深刻な不満である。ある日、クリテムネストラはその腕からエレクトクラを落ちるにまかせたのだ…(ラカン、S10「不安セミネール」, 23 Janvier l963)

ーーなおここでの記述は、「母の三界」と「女に貪り喰われる恐怖」を前提としている。

⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンがイマジネール(想像的)な審級について語ったとき、彼は見られ得るイマージュについて語った。鳩は空虚に関心はない Le pigeon ne s'intéresse pas au vide。イマージュの場処に空虚があるなら、鳩はそこでは成長しない 。昆虫は繁殖しない 。

しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について話すことを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 L'imaginaire postsymbolique は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 l'imaginaire présymbolique とはひどく異なる。

象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか?  厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものである ce qui ne peut pas se voir。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス le phallus féminin、母なるファルス le phallus maternel がある。それが想像的ファルス le phallus imaginaire と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 imagination の問題であるかのようである。

ラカンの名高い鏡像段階 le stade du miroir における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚 perception と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。…これが意味するのは、想像界と象徴界の接合であり、したがって知覚からの分離という命題である。すなわち、イマージュは見られ得ないものをスクリーンする(隠蔽する)l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir。(ジャック=アラン・ミレール『享楽の監獄』1994年)


女に貪り喰われる恐怖

いやあ、きみ! 女が怖いのはごく普通の「症状」だよ、

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

で、症状のない主体はない、だよ

固着とは、フロイトが原症状と考えたものであり、ラカン的観点においては、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。そしてそれ自体、修正も治療もできない。これがラカンの最後の結論、すなわち「症状なき主体はない」である。(ポール・バーハウ、他, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way. Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq ,2002)

そして、すべての女に母の影が落ちているんだ。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう aufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。Denn dies scheint die überraschende, aber regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) zu werden, wohl zu sein.(フロイト『女性の性愛』1931年ーー母の三界



エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)




ーー見てのとおり、ヒッチコックなんてそればっかり映画にしてるようなもんだよ(→ Alfred Hitchcock was traumatized by his mother)。

生物学的機能において、二つの基本欲動(エロス)は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

これに不感症なんて、キミはよっぱど「幸運な」人生歩いてきたんじゃないか?

それともこっち系のセンモンカなんだろうか、貴君は?




ーーいやあ、若いうちはこれもワルくはないよ




とはいえキミは「幸運」なままなんだよ、きっと。こういったことを知らないようだから。

男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』)



2014年12月13日土曜日

鳥瞰の眼





「不動のトラッキング・ショット」という逆説。つまり、カメラが動かない。現実から〈現実界〉への移行は、異物が枠の中に闖入してくることによって達成される。たとえば『鳥』では、長い固定したショットの間にそうした移行が達成される。鳥に脅かされた小さな町で、ガソリンの上に落ちたタバコの吸いさしから火事になる。われわれをすぐさま事件へと引きつける一連の短い「ダイナミックな」クローズアップとミディアム・ショットの後で、カメラは後上方へと後退し、上空から町全体が写し出される。最初、われわれはこの俯瞰を「客観的」「叙事詩的」パノラマ・ショットと解釈する。このショットはわれわれを下の方で起きている事件から切り離し、解放してくれる、と。カメラが遠ざかることによって、われわれはいわば「安心」する。そのおかげでわれわれは事件を、いわば「メタ言語的な」距離から眺めることができるのだ。ところが、突然、一羽の鳥が右の方から画面に入ってくる。まるでカメラの後方から、ということはつまりわれわれ自身の背後から、入ってきたように見える。それによって、同じショットがまったく違った様相を見せるようになり、根源的な主観化を被る。高い視点のカメラの眼が、眼下の景色を俯瞰している中立的で「客観的な」観察者の眼であることをやめ、突然、獲物に向けて照準を合わせている主観的で脅威的な鳥たちの眼に変わるのである。(ジジェク『斜めから見る』「ヒッチコックにおける染み」p183)
 註)このシーンは、幻想的な効果を生んでいるが、同時に、主体はかならずしも幻想的な光景の観察者として登録されているわけではなく、観察される対象の一つになっていることもある、というテーゼを例証している。われわれの視点――カメラの視点――は鳥たちの視点であり、その獲物の視点ではないにもかかわらず、鳥たちの主観的な町の眺めは、われわれを脅かす効果をもたらす。なぜなら、われわれはその光景に、町の住民として登録されているからである。つまり、われわれは脅かされた住民たちに同一化するのである。

大切なのは、鳥瞰の眼などないことを知ることだ。さらに客観的=俯瞰的に語っているつもりの似非インテリたちのイカサマ俯瞰的視線を嘲弄してやることだ。その効果的な手法のひとつは、鳥たちがカメラの後方から入って来るようにして、彼らの、あたかも客観的なつもりの視点の土台を脇から揺らし崩すことだろう。

われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「人間的主観性のパラドックス」覚書

たとえば、〈わたくし〉が鳥たちの俯瞰の眼のたぐいの似非客観的な観点から、生意気な叙述をしたとする。だが、その眼がみつめる対象には、〈わたくし〉が書き込まれている。ラカンの〈対象a〉とは、究極的には、対象に〈わたくし〉が書き込まれているということに過ぎない。それはロラン・バルトのプンクトゥム概念も同じく、ーー《たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。》(バルト『明るい部屋』--ベルト付きの靴と首飾り)。

あなたは「当事者」の視点から逃れて客観的な立場で語っているつもりになる。だがそのとき対象にはあなただけの染み(対象a)がある。それは逆にいってもいい。あなたが「当事者」の立場でしかないというとき、あなたはメタレベルに立っている。

こういったことは本人は気づかないでいることがしばしばある。その「無意識」を指摘してやることだ。ヒッチコックの映画を観てもたらされる「不安」は、彼がその技法を自ずと身につけていたことにもあるのではないか。

ヒッチコックの『めまい』において、ジュディ=マデリンはそれと似たような変容を遂げる。「本来の場所」から引き離された瞬間、彼女はもはや〈物〉の場所を占めておらず、その魅惑的な美しさは消え、嫌らしいものに変わってしまう。要するに、ある対象の崇高な質は内在的なものではなく、それが幻想空間の中で占める位置に及ぼされる効果なのである。(ジジェク『斜めから見る』p160)

《ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起るのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。》(同『斜めから見る』p27)

フランスのTVではしばしばそうだったのですが、すなわち、精神分析家が参加しない討論はあり得なかったのです。そしてその精神分析家が常にとどめの言葉を述べ、度が過ぎた文句で討論が閉じられてしまう。そこでは精神分析家の見解に対してなんの反論もないままなのです。これは私のスタイルではありません。私はそのやり方を好みません。私が思うに、Deutung(解釈)はメディアの領域内において精神分析家の仕事です。ーーフロイトの愛すべき言葉のひとつがあります、何かを指摘しなさい、と。人びとは自身で答えを探さなければなりません。けれど、何かを解釈することは、その可能性を開きます。最近は、すべてが覆われ糊塗されています。これは愛すべきラカンの結論でもあります。ラカンは言いました、無意識はつねにーふたたび閉じられてしまう、と。われわれは、無意識を開いたままにするように努めなければなりません。須臾の間でも無意識は開いたままになれば、何かが起こり得ます、何かが動き得ます。これが解釈の機能でもあります。あなたの指先を何かに向けてみなさい。ときにそれは機能します。(PSYCHOANALYSIS IN TIMES OF SCIENCE An Interview With Paul Verhaeghe2011 私訳)

中井久夫の「メタ私」概念は、フロイトの「無意識」よりも広範な氏独自の概念だが、次のように書いている。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)


…………






まず最初に『鳥』の一場面を取り上げよう。主人公の母が、鳥たちに荒らされた部屋を覗き込み、両眼をえぐられたパジャマ姿の死体を見る場面だ。カメラはまず死体全体を見せる。われわれはカメラが、魅惑的な細部、すなわち眼球をえぐりとられた血まみれの眼窩へとゆっくり接近していくのを期待する。ところがヒッチコックはわれわれの期待するプロセスをひっくり返すみせる。スローダウンの代わりにスピードアップしてみせるのだ。その各々がわれわれを主体へと接近させる二つの唐突なショットによって、彼はいきなり死体の頭部を見せる。この急速に接近するショットは価値転倒的な効果を生み出す。というのも、そのショットは、ぞっとするような対象をもっと近くで見たいというわれわれの欲望を満たしているにもかかわらず、われわれを欲求不満に陥らせる。対象に接近する時間が短すぎて、われわれは、対象の唐突な知覚を統合し、「消化」するための間、つまり「理解のための時間」を飛び越えてしまうのだ。

ふつうのトラッキング・ショットは、「正常な」速度を落とし、接近を引き延ばすことによって、対象=染みにある特定の重みをあたえる。ところがここでは、対象が「見失われる」。われわれがあまりに性急に、あまりに速く対象に接近してしまうからである。いうなれば、通常のトラッキング・ショットは強迫的であり、われわれをある細部へと無理やり固着させる。その細部はトラッキングの緩慢な速度のために染みとして機能せざるをえなくなる。一方、対象への性急な接近はヒステリー的な傾向を帯びており、われわれはあまりの速度によって対象を「見失う」。なぜならこの対象はすでにそれ自体が無であり空洞なのである。したがって、「あまりにも遅く」か「あまりにも速く」でないと呼び出すことができないのだ。なぜなら「適当な時間」をおいたとき、それは無でしかないのである。したがって、引き延ばしと性急さとは、欲望の対象=原因、<対象a>、純粋な見せかけの「空無性」を捉えるための二つの方式なのである。かくして、ヒッチコックにおける「染み」の対象的次元が明らかになる。すなわち、その染みがいかなる意味作用をになっているかということである。それは二重の意味を生み出し、映像のあらゆる要素に、解釈活動を開始させるような補足的な意味を付け加えるのである。

だからといって、染みのもう一つの側面を見落としてはならない。それは、象徴的現実があわわれるためには落ちなければならない、あるいは沈まなけらばならない、不活性で不明瞭な対象としての側面である。つまり、牧歌的な風景の中に染みを出現させるヒッチコック的なトラッキング・ショットは、いわば、「現実の領域は<対象a>の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず<対象a>が現実の領域を枠どっている」というラカンのテーゼを例証するために用いられているといってもいいかもしれない。(同『斜めから見る』p177-178)