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2019年4月1日月曜日

たまったもんじゃない

フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
私はラメラ lamelle について話そう。…

新生児になろうとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに、何ものか quelque chose がそこから飛び去るのだと、すこし想像してみよう。この何ものかというのは、卵からも、また人間 homme からもできるもの、すなわち、オムレットhommelette、あるいはラメラlamelle である。

ラメラlamelle、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動する se déplacer 。ただし、アメーバよりはもう少し複雑である。しかし、それはどこへでも通って行く ça passe partout 。そして、それは、有性生物がその性 sexualité において喪ったものと関係を持つ何ものかであるために ... 、丁度アメーバが有性生物に比べてそうであるように、 不死 immortel なのである。 なぜなら、 それça はあらゆる分裂divisionをこえて生き残るからであり、あらゆる分裂増殖の介入をこえて存続するからだ。そして、それça は駆け巡る。

いやはや、それça は心穏やかなものではない(たまったもんじゃない)。あなた方が静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うことを考えてもごらんなさい。  

こんな性質を持ったものとどうしたら闘わないで済むものか私にはよく分からない。でもそんなことになったら、それは容易な闘いではないだろう。

このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが ... 、 それはリビドー libidoである。  

これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除された(差し引かれた soustrait)ものである。

対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。

乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)
リビドーとは、このラメラである La libido est cette lamelle。それは、有機体としての存在 l'être de l'organismeを真の限界に導く。その限界は、身体の限界を遥かに超えている。…

ラメラは器官organeであり、有機体の道具 instrument de l'organismeである。それはときに、ほとんど容易に感受される。ヒステリー者が、その柔軟性を徹底的に試みて上演するとき。quand l'hystérique joue à en éprouver à l'extrême l'élasticité.(ラカン、E848、1964年)

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ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯)

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「性愛(リーベ Liebe)」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

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最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

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原ナルシシズムnarcissisme primaireの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller、Introduction à l'érotique du temps、2004)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
母なる去勢 La castration maternelleとは、幼児にとって貪り喰われること dévoration とパックリやられること morsure の可能性を意味する。この母なる去勢 la castration maternell が先立っているのである。父なる去勢 la castration paternelle はその代替に過ぎない。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ engloutissement、貪り喰われことdévorationに対しては。(ラカン、S4、05 Juin 1957)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


いやあボクはこればっかり書いてるのにな。かなりひどい高所恐怖症ともくり返しているし。

自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)






「母の溺愛 « béguin » de la mère」…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

母は巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『聖ぺトロの手紙、58』)
ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、,La logique de la cure、1993)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ,, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL,1995)
メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)


だいたいボクがエロを書いたり、ときにエロ画像を貼り付けるのは、草間彌生の「去勢の去勢」戦略の類似現象なんだけどな




・芸術がメドゥーサの髪の毛を多数の蛇として造形することが多いのは、蛇もまた去勢コンプレックスに由来しているからである。注目すべき事実は、それら自体がいかに恐ろしいものでも、実際は「恐怖の緩和」として役立っていることである。なぜなら、恐怖の原因であるペニスの不在をペニスに置き換えているためである。

・我々はラブレーの作品に、女にヴァギナを見せつけられた悪魔は退散していることを読むことができる。(フロイト『メドゥーサの首』草稿、1922年執筆、1940年死後出版)
…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )