フロイトは21才のときに、「ウナギの生殖腺の形態と構造について」「ヤツメウナギの脊髄神経節および脊髄について」 という論文を書いているぐらいで、いわばウナギのセクシャリティ研究者から出発している。
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その後、この研究では充分に稼げない、あるいはユダヤ出自では大学教授になることも難しいと考えたせいもあるらしく、シャルコーに弟子入りしたりして、人間のセクシャリティの研究家になった。手始めはヒステリーの研究者である。
ヒステリー とはギリシア語源の子宮[hustéra]からくる。
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子宮は動物である。子供を生むことを憧憬する動物である。思春期以後あまりにも長く子供を持たないままだと、子宮は腹を立て苦しんで五体をさまよい,呼吸の動きををとめて酸素吸入を妨害し、最も激しい苦悩とさらにあらゆる種類の病を引き起こす。(プラトン『ティマイオス』)
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ラカンは子宮について、たとえばこう言っている。
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アリストテレスは既にヒステリーを次の事実を基盤とした理論として考えた。すなわち、子宮は女の身体の内部に住む小さな動物であり、何か食べ物を与えないとひどく擾乱すると。Déjà ARISTOTE donnait de l'hystérique une théorie fondée sur le fait que l'utérus était un petit animal qui vivait à l'intérieur du corps de la femme et qui remuait salement fort quand on ne lui donnait pas de quoi bouffer. (Lacan, S2, 18 Mai 1955)
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女が事実上、男よりもはるかに厄介なのは、子宮あるいは女性器の側に起こるものの現実をそれを満足させる欲望の弁証法に移行させるためである。Si la femme en effet a beaucoup plus de mal que le garçon, […] à faire entrer cette réalité de ce qui se passe du côté de l'utérus ou du vagin, dans une dialectique du désir qui la satisfasse (Lacan, S4, 27 Février 1957)
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ある時期以降のラカンは、女性にとっての子宮ではなく、人間にとっての子宮を強調するようになる。
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子供はもともと母、母の身体に生きていた l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère 。…子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの羊膜によって覆われた身体である。il est, par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses de son chorion dans […] l'utérus(Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
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女の子宮のなかで子供は寄生体である。すべてがそれを示している、この寄生体と母胎とのあいだの関係はひどく悪くなりうるという次の事実も含めて。
Dans l'utérus de la femme, l'enfant est parasite, et tout l'indique, jusques et y compris le fait que ça peut aller très mal entre ce parasite et ce ventre. (Lacan, S24, 16 Novembre 1976)
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人はみな女の股の間から生まれてきた。子宮は人の故郷である。それを蔑ろにしたらセクシャリティ研究などあったものではない。
話を戻せば、子宮理論はヒポクラテス、ガレノス、パラケルルス等によって継承された権威あるものだった。だが18世紀前後に始まる医学的臨床眼の世界にて、ヒステリーは子宮の病気ではなく脳の病気だという「啓蒙」がなされて、子宮という根源的な愛の対象ーーラカン表現なら「(原初に)喪われた対象」・「享楽の対象」ーーが隠蔽されてしまった。だがこれはまったく馬鹿げた啓蒙である。フーコーが『臨床医学の誕生』で、あの時代の現象を「見ずにおくことの技術の体系」と苛立ったのも当然である。
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現在、ヒステリーという語はDSMの世界では消えてしまったが、症状自体は名を変えて存続している。たとえばパニック障害、身体化障害等々と呼ばれるものは、かつてのヒステリーの底部に存在した症状に他ならない。
ヒステリーは、フロイトが使った語彙では、転移神経症としてのヒステリーが代表的なものだが、転移ヒステリーとは実際は心的マスクに過ぎない。その底部には不安ヒステリーがあり、さらにその底には、真の「リビドーの身体」の症状である「不安神経症」がある。
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不安神経症 Angstneuroseにおける情動 Affekt は…抑圧された表象verdrängten Vorstellung に由来しておらず、心理学的分析 psychologischer Analyse においてはそれ以上には還元不能nicht weiter reduzierbarであり、精神療法 Psychotherapie では対抗不能nicht anfechtbarである。 (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年)
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この不安神経症の上位区分の現勢神経症について、フロイトは1926年に原抑圧の症状だとしており(参照)、これは事実上、人間の原症状としてのラカンのサントームである。
そもそもフロイトの不安神経症とラカンのサントームの定義文自体がそっくりである。
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四番目の用語(サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
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男女関係とは本来、「ファルスプラス/ファルスマイナス」ではなく、「子宮マイナス/子宮プラス」として捉えるべきものである。ファルス秩序、つまり言語秩序からみれば女はマイナスの存在だが、身体の現実界からみれば男がマイナスで女がプラスである。月の満ち欠けにともなう子宮という最も親密な身体の機能を隠蔽しようとする女たちはファルス女と呼ばれてしかるべきである。なぜなら自らの女性性の根をファルス規範によって否定しようとしているのだから。ポリコレジェンダー理論の最悪の罪というものが間違いなくある、ーー《ジェンダー理論は、性差からセクシャリティを取り除いてしまった。》(ジョアン・コプチェク Joan Copjec, Sexual Difference, 2012年)
この21世紀、いまだ猖獗する子宮蔑視の啓蒙の時代の厚顔無恥な似非知を追い払って、プラトンやアリストテレスの時代における子宮への視線を少しでも取り戻さねばならない。プラトン・アリストテレスどころか、ヒステリーについての最初の理論は、4000年ほど前のパピルスに記されている。このパピルスは、エジプトのEl Lahun (Kahun)で1937年に発見された。そこには、ヒステリーは子宮の移動によって引き起こされると記されている。子宮は、身体内部にある独立した・自動性をもった器官だと考えられていたのである。
真のフェミニスト、米国ポリコレフェミ文化内のの爆弾女カミール・バーリアは1990年に既にこう言っている。
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女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。
元来、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。(…)
自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある。(…)
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女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。(…)
西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア camille paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
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現在、科学の世界でも漸く子宮から発するコピュリンという女性ホルモンが注目され始め、男女のセクシャリティに果たす大きな役割にわずかながらであるが光が照射されつつある、ーー《コピュリンと呼ばれる女性のヴァギナホルモンは、テストステロン(男性ホルモン)のレベルを上げて性欲を増大させる》(参照)。
生物学相の観点からはーー女性フェロモンの多寡や年齢の高低にもよるがーー、女たちはみな歩く誘惑者である。他方、男は歩く追っかけである、ーー《追っかけと誘惑 Pursuit and seduction はセクシャリティの本質である。》(カミール・パーリア、Sex, Art, and American Culture、2011年)
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
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