不安は何ものかの予感に関係しているのは疑いない。不安は、漠然さと対象のなさに特徴がある。Die Angst hat eine unverkennbare Beziehung zur Erwartung; sie ist Angst vor etwas. Es haftet ihr ein Charakter von Unbestimmtheit und Objektlosigkeit an; (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)
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ジャック=アラン・ミレールが何度も強調しているが、『制止、症状、不安』は
後期ラカンの教えの鍵である。だが上のフロイトの叙述に対してはラカンは反発している。
漠然さ[Unbestimmtheit] と対象のなさ[Objektlosigkeit]に対してである。
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不安は対象なきものではない l'angoisse n'est pas sans objet( Lacan, S10, 6 Mars 1963)
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享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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不安は、対象のなさ[Objektlosigkeit]ではなく、喪われた対象 [objet perdu]にかかわるとラカンは言ったのである。
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喪われた対象とは何か?
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不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)
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結局、究極の喪われた対象とは、出産外傷による《喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben》(フロイト、1926)である。だがこれではあまりにもダイレクト過ぎる。これを言っちゃあオシマイのところがある。そのせいもあるだろう、ラカンは、空洞、空虚ーー後には穴と言うーーと言い直す。
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われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞 creux・空虚 videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象( 永遠に欠けている対象objet éternellement manquant)」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
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ここに言われている空洞の周りの循環運動としての自体性愛が、ラカンの本来の享楽である。
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになった。より厳密に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un , 25/05/2011)
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自体性愛とは自己身体エロスと言い換えうるが、この自己身体とは乳幼児期さらに遡れば胎児期、自己身体だと見なしていたが分離されてしまった身体のことであり、これをフロイトは主に異物 Fremdkörper、ときに異者Fremdと呼び、ラカンは異者身体corps étrangerとも呼んだが、同じ意味である。
ラカンの本来の享楽は欲動の言い換えである。ラカンは欲動のリアルについて、フロイトの夢の臍を文字通りとって臍の緒=穴としている。
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。
il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.
原抑圧との関係、原起源にかかわる問い。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。
La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse
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人は臍の緒によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤によってである。
…que quelqu'un s'est trouvé en quelque sorte suspendu[…] pour lui du cordon ombilical. Il est évident que ce n'est pas à celui de sa mère qu'il est suspendu, c'est à son placenta.…
臍は聖痕である。l'ombilic est un stigmate.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)
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ーー穴は聖痕なのである。 「夢の臍」についてフロイトはこう言っている。 |
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暗闇に置き残された夢の臍 im Dunkel lassen[…]Nabel des Traums」(フロイト『夢解釈』第7章、1900年)
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暗闇に蔓延る異者 wuchert dann sozusagen im Dunkeln […] fremd (フロイト『抑圧』1915年)
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ーー「暗闇に蔓延る異者」の異者が、喪われた対象としての穴であることは、「異者文献」を参照されたし。
いやエキス文を引用しておこう、
したがって、最晩年のラカンが次のように言うとき、ひとりの女は穴であると言い換えうる。
ひとりの女とは、ラカンのテーゼ《女というものは存在しない。女たちはいる。[La femme n'existe pas. Il y des femmes,(Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)、つまり「定冠詞つきの女は存在しない、だが定冠詞なき女たちはいる」にかかわり、定冠詞などない日本語ではシンプルに「女は穴である」と言ったってよい。
穴とは、母の身体の穴であると同時に主体側の身体の穴でもある。あくまで想定された限りでの母胎内の母子融合という享楽だが、その原享楽状態が出生によって穴が空けられる。究極的にはその意味での主体の穴、原母の穴である。したがって本当は男だって穴である。ただし男はファルスなるケッタイなものがついているので、イメージとして「男は穴」というのはいかにも奇妙である。一般に男はファルスの詐欺師と呼ばれる(参照)。
穴というのは下品な言葉であり、スコブル上品な育ちの蚊居肢子はしだいに耐え難くなってきた。そろそろ老子の「孔徳之容」に言い換えるべきではなかろうかと思案中のキョウコノゴロである・・・《孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。》(老子『道徳経』第二十一章) |
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対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
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大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
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身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
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〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, […] c’est le nom du premier trou (コレット・ソレール Colette Soler , Humanisation ? 2014セミネール)
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