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2020年7月7日火曜日

愛の迷宮構造


「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」(シェイクスピア『リチャード二世』)

愛とはあなたが持っていないものを与えることだ、それを欲していない人に。L'amour, c'est donner ce qu'on n'a pas à quelqu'un qui n'en veut pas. (Lacan, S12, 17  Mars 1965)


…………

以下に引用するミレールの「愛の迷宮」は1992年のものであり、いくらか古くなっているところがある。


・たとえばȺの価値、ミレールは2001年に「欠如と穴」を区別した。それがここでは反映されていない。

・2004年のラカンの不安セミネールミレール版上梓に際しての熟読吟味による女性性賛歌があるが、それは反映されていない。

・またフェティッシュの価値、ミレール注釈では2004年以降、「フェティッシュのインフレ」(価値上昇)がある。

・男性の同性愛には愛がないという観点には反論するラカニアンもいる。

こういったいくらか気をつけないといけない面はあるが、それ以外はとても示唆溢れる小論なので、ここではそのまま掲げる。


愛する者と愛される者とのあいだにおける愛の理論には非対称性がある。

何よりもまず次のことを学ぼう。すなわち「愛する」とは「欠如している」[« j'aime », c'est : « je manque de »]という意味である。私は愛される者を(+)記号、愛する者を(-)記号にて徴す。事実上、ここで愛の理論に去勢が導入される。

精神分析学的な愛の理論は、第一に愛の自動性[l'automaton de l'amour]であり、第二に愛における去勢を意味する。去勢は愛する者の側にあり、相補的にファルスは愛される者の側にある[la castration est du côté de l'amant, et corrélativement le phallus est du cole de l' aimé. ]。
愛する者をȺーー斜線を引かれた大他者ーーと記そう。そしてファルスの意味作用を去勢( -φ)にて記す。愛する者は去勢されている。この理由で、古来からの知恵は愛は女たちのものだとする。

どちらのパートナーも欠如していないという関係はまったく考えられない。男性の同性愛でそれは起こる。女性における同性愛は男性の同性愛とはまったく異なった形で構成されている。女性の同性愛は、愛の審級にある。男性の同性愛は欲望の審級にあり、愛からは完全に分離している[Du côté femme , elle se constitue dons le registre de l'amour ; du côté homme, dons le registre du désir, et, à l'occasion, tout à fait séparée de l'amour]。

リーベ Liebe は、愛と欲望の両方をカバーする用語である。ではなぜここで愛と欲望を区別するのか。その理由は、次のパラドクスがあるからである。他者を愛することは、他者をファルスとして構成する[aimer l'autre, c' est le constituer comme phallus]。しかし他者から愛されたい望むこと、すなわち愛される者を愛する者にしたいと望むことは、他者を去勢することである[mois vouloir être aimé par lui, c' est-à -dire vouloir que l'aimé soit aimant, c'est le châtrer ]。

ラカンは女性の愛の生を次のように分析した。女は男をファルスとして構成する一方で、密かに男を去勢していると。そして男の場合は二つの機能は分離する、あるいは分離する傾向があると考えた。すなわち愛される女と欲望される女。そして後者はファルスの意味作用を持つ。(…)

愛する者と愛される者との関係において、本質的な問題は、愛する者は愛される者に欠如をもたらそうとすることである。これはまさにヒステリーの形式である。何がこの作用の土台となっているのか。まったくシンプルに愛の要求である。愛の要求は、その要求が愛されたいという要求である限りで、大他者に自らの欠如の露顕を促す要求である。

愛の理論における去勢の包含は、さまざまな非対称的構築を生む。ナルシシズム的愛と依存的愛(アタッチメント型愛)のあいだのフロイトの区別のように。ナルシシズム的愛は自己への愛にかかわる。依存的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、依存的愛は象徴界の軸にあり、この場で去勢が作用する。

ここで愛と欲動のあいだの相違が明らかになる。なぜフロイトは欲動用語を発明したのか。なぜなら愛の要求とは関係がない要求をする主体類型があるからである。沈黙しているにもかかわらず不屈の要求、大他者を標的にしない要求、大他者のなかの欠如を標的にしない要求。それは絶対的条件としての要請である。

たとえばフェティシズムの倒錯である。この倒錯において、女性が欠如しているか否か、ハイヒールを履いた女が欠如に応じるか否をを知ることは問いではない。享楽しうる対象の現前が主体の欲動要求である。倒錯者は彼の対象の沈黙を楽しむ。

愛の迷宮を為すものは、三つの水準の密接な関係である。第一に、愛することが欲望することである限り、対象はファルスの意味作用を持たなければならない。第二に、愛することが愛されたいという要求である限り、Ⱥ(斜線を引かれた大他者)の価値を持たなければならない。第三に、愛することが享楽の意志[vouloir de jouir]である限り、対象aの価値を持たなければならない。対象は、欲望・要求・欲動のなかに同時に位置づけられる。愛の生の迷宮は、この三つの水準の分節化の事実にある。時に統合され、時に分離される。ここに恒久不変性があり、あそこに儚さがある。時に純粋で、時に混淆されている。これが、愛の生において遭遇する無限の変様性をわれわれにもたらす。(J.-A. Miller「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)





愛において与えるものは我々が持っていないものだ。そして我々の持っていないものが我々に戻ってくる時、疑いもなく退行がある。それと同時に、我々はその欠如を表象することに失敗する人物を持つ。Ce que nous donnons dans l'amour, c'est essentiellement  « ce que nous n'avons pas », et quand ce « nous n'avons pas »  nous revient, il y a régression assurément,  et en même temps révélation de ce en quoi nous avons manqué à la personne pour représenter ce manque. . (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)



以下、いままで何度か引用してきた文を再掲しておこう。

私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。愛するためには、あなたは自らの欠如 manqueを認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。
ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽un peu comiqueである。(J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)



愛することは、本質的に、愛されたいことである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
どんな愛もない、ナルシシズムの相から来る愛以外は。il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique, (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)
愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


もっとも男性にもナルシシズム的愛がないわけではけっしてない。


――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ être une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。

――男性のファンタジーはどうなのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)


……………

男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年)
女性の愛の形式は、フェティシストというよりももっと被愛妄想的です[ la forme féminine de l'amour est plus volontiers érotomaniaque que fétichiste]。女性は愛されたいのです[elles veulent être aimées]。愛と関心、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定するものですが、女性の愛の引き金をひく[déclencher leur amour]ために、それらはしばしば不可欠なものです。( J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010年)