ルジェンヌの「エクリチュールと性」は、「精神分析的には」ほとんど完璧だね、プルーストはもちろんそれだけではないが。
◼️フィリップ・ルジェンヌ「エクリチュールと性」
Philippe Lejeune, L'Ecriture et Sexualité, 1970より
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私を苛立たせたマドレーヌ
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長いあいだ、ブチット・マドレーヌはわたしを苛立たせてきた[Longtemps, la petite madeleine m’a irrité]。他の多くのプルーストの読者同様、「本質はここにあらず」と断言して、その身のほどを教えてやりたいと思っていた。わたしの癇にさわったのは、そこにこの挿話の根があるとにらんだ初歩的な心理主義だったが、しかしまたその磨きをかけた文章やら心の内面にかかわる家族がらみの詩的感興やらも、そこに一役買っていたようだ。だが何といっても、スプーンのなかでとけ崩れるこの菓子の、色あせた昔の匂いとそのスポンジ状の質感に、なにかそれがいかがわしい、ひょっとすると淫らなことでさえあるかのような居心地の悪さを覚えていた[j’étais gêné par l’odeur désuète et la consistance spongieuse du gâteau qui s’amollit dans la cuiller, comme par une chose trouble, indécente peut-être]。 わたしの苛立ちもおそらくは、この居心地の悪さをおし隠そうとしてのことでしかなかったのだ。
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ところがある日、オヤッと思うことがあった。この挿話のすでに公表されている第一稿(『反サント = プーヴ論』の序文)は、プチット・マドレーヌのところが、一切れのトーストと単なるラスクになっていることに気が付いたのだ。何故だろう、この変化は? わたしは、両テクストを見くらべてみた。そのときからである、一連の探求がわたしのなかで開始されたのは。それはおどろきにつぐおどろきの連続だった。わたしが以下にのべるのは、この読解の物語なのである。(…)
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マドレーヌと女性器
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マドレーヌ菓子はどのように描写されているか。
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溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえる〈プチット・マドレーヌ〉と呼ばれるずんぐりして丸くふくらんだあのお菓子の一つ(「スワン家のほうへ」)
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un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblent avoir été moulés dans la valve rainurée d'une coquille de Saint-Jacques (I, 45).
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この描写は女性性器のイマージュ[ image du sexe féminin」を連想させる。ずんぐり、丸くふくらんだ、鋳込まれた貝殻 = 弁、溝の入った[court, dodu, moulé, valve, rainure, coquille]、と一つとして女性器を思い起こさせない言葉はない。
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その先でプルーストはもう一度この菓子の外観を叙べる。
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厳格で敬度な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、お菓子でつくった小さな貝の身(「スワン家のほうへ」)
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petit coquillage de pâtisserie, si grassement sensuel sous son plissage sévère et dévot (I, 47).
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偶然とか、単に文に生彩をあたえようという美的センスだけで、このぼってりと官能的で襞のついた貝の身という、露骨に意図のすけてみえる諸要素がこれほど一堂に会しえたとは想像しにくい。マドレーヌは女性性器の一つのイマージュになっているようなのだ[ La madeleine est comme une image du sexe féminin. ]
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『囚われの女』におけるアルベルチーヌの下腹部の描写を思いうかべれば、その事情はいっそう明瞭になる。
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彼女の下腹部は(男なら、壁から取外した彫像にまだ打ち込んだままのカスガイのようなもので醜悪になっている場所を包み隠しながら)、陽が沈んだあとの地平線のようにまどろんだ、安らぎをあたえる、修道院のような曲線をもつ二枚の弁(valve)によって腿の付け根のところで閉じていた。(「囚われの女」)
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son ventre (dissimulant la place qui chez l'homme s'enlaidit comme du crampon resté fiché dans une statue descellée) se refermait, à la jonction des cuisses, par deux valves d'une courbe aussi assoupie, aussi reposante, aussi claustrale que celle de l'horizon quand le soleil a disparu (III, 79).
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ここでまたしても、あの宗教的気配(《修道院のような》は厳格で〈信心深い〉 襞を思いださせる)、あの同じ《弁 valve 》のうねり、貝の彎曲にお目にかかる。貝と女性性器のつながりは、弁〔valve〕いう語の使用によって表現されている(この語の背後に vulve〔外陰部〕という語が聞こえてくる)。プルーストは他にも何度か弁という語を使っているが、それがなかなか意味深長なのだ。(…)
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On retrouve ici la même atmosphère religieuse (le « claustral » rappelle le plissage sévère et « dévot »), et le même mouvement de « valve », la courbure du coquillage. L'association du coquillage et du sexe féminin s'exprime par l'emploi du mot « valve », – (derrière lequel on entend le mot vulve). On retrouve chez Proust d'autres emplois du mot valve, assez révélateurs. […]
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マドレーヌとマグダラのマリア
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だがマドレーヌという名はどこから来ているのか? 新約聖書の、「七つの悪霊を逐いはらってもらったマグダラと呼ばれるマリア」(「ルカによる福音書」第八章二)からである[マドレーヌはマグダラのフランス語名。以下マドレーヌで示す]。
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マドレーヌは名だたる《罪人》であり、新約聖書をもとにつくられたその伝説は次の通りである(わたしに関心があるのは厳密な意味での新約聖書ではなく、中世を通じ、そしてそれ以降、とりわけ図像において展開されてきたかぎりでの神話である)。肉欲の罪人(彼女の罪は愛である)たる彼女は、キリストとの出会いに衝撃をうけて、その足に香料をそそぐ。彼女は悔いあらため、さめざめと涙をなかし (《マドレーヌのように泣く= さめざめ泣く》という表現がそこから生じる)、キリストを礼拝し、あとに付きしたがい、その結果かつての罪人は聖女たちの一人に迎えいれられる。過越の祭の朝、キリストの墓が開かれ空になっているのを発見したのは彼女であり、復活したキリストと最初に出会い、はじめ彼を庭の番人と思い違えたのも彼女である(「ヨハネによる福音書」第20章 10-18)。
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中世の図像では、彼女の象徴的な持ち物は香料の壺[le vase de parfum]である。彼女は香水製造同業組合の守聖人だった。近代の図像(たとえばティツィアーノのマドレーヌ像をみよ)で彼女の姿が表わすのは、悔悟の肉欲的なイメージである。彼女は悔悟の情をたたえた視線を天にむける、しかしその肉体は官能的に表現されており、全体としてうける印象はどっちつかずの暖味なものなのだ。
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私は注目する、この伝説の諸要素は、官能性、罪悪感、悔悟、涙 (罪悪感と快楽の二つに結びついた)、香り、復活の神話……[sensualité, culpabilité, repentir, larmes (associées à la fois à la culpabilité et au plaisir), rôle du parfum, mythe de la résurrection..]…そのことごとくが話者の物語に出揃っていることを。それにそれらはまた、子供の生活において最も重要な要素でもある。それだけではない、この諸要素の構成にもある種の類似があるように思われる。そしてわたしは次のような仮説を提唱してみたくなる、プルーストはマドレーヌのマリア〔マグダラのマリア〕の物語に自らの物語を見出したのだ、と。[Et je suis tenté d'avancer l'hypothèse suivante : Proust a reconnu son histoire dans celle de Marie-Madeleine]。
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官能的快楽と《プラトニック》な固着に引き裂かれたマドレーヌと子供
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実際、マドレーヌとキリスト、罪をおかした子供と母親という関係に、完全な類似ではなくとも、はっとさせるほど似通ったところがあるのをみてとるには、性の違いを逆転すればことたりる(それにわれわれは彼の小説を通してこういう逆転には慣れている)。マドレーヌも子供も、恥ずべき官能的快楽と《プラトニック》な固着に引き裂かれた曖昧な立場におかれている[Madeleine et l'enfant sont tous deux dans une situation ambiguë, partagés entre la volupté honteuse, et la fixation « platonique » ]
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マドレーヌと子供がともに体験する罪から侮悟への展開は、話者にはおなじみの冒瀆という衝動の逆転形である。もっとも性を逆転することでマドーヌと子供を同一化できるからといって、マドレーヌが一個の女性であり、より表層的レベルではただ一つの人格に、聖母マリアの顔と(彼女は聖女たちの一員になるのだから)、娼婦のそれを心乱すやり方で結合することを妨げるものではない。この人格は母であり売女であり、プラトニック・ラヴであり、性愛なのだ[celle de la prostituée : la mère et la débauchée, l'amour platonique et le sexe]。(…)
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コンブレーのレミニサンスとキリストの復活 ➡︎ 母の復活
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そのうえ『失われた時』には マドレーヌを暗示した箇所がある(「ゲルマントのほう」160頁)。それは一見とるにたりないそっけないものなので、重要性のない装飾とみなされ、プルーストが翻訳し註釈をつけたラスキンの一節(『胡麻と百合』p223-224)の二番煎じだぐらいのところで、説明をおわらせてしまいがちなのである。
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ところが注意して読むと、そこにはわが並行関係の仮説の最後の部分〔キリスト = 母の復活にマドレーヌ= 話者が立会うこと〕が、プルースト自身によって確認されているのがあからさまにみてとれるのだ。つまり、話者は自らをマドレーヌに擬するとともに、そこで経験したばかりのコンブレーの レミニサンス (プチット・マドレーヌのレミニサンスに類似したレミニサンス)を、キリストの復活に擬しているのである[le narrateur se compare à Madeleine, et compare une réminiscence de Combray qu'il vient d'avoir (réminiscence analogue à celle de la petite madeleine) à la résurrection du Christ. ]。
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この唐突な比喩につづく長い叙情的詠嘆では、一貫してこの暗喩が踏まれており、その手付きたるや巧妙な反面どこか強引であって、まるでプルーストは、その本当の意味がべつのところにひそんでいる比較に、ぜがひでも一種の詩的真実性を帯びさせようとしているかのようなのだ。それは具体的には、レミニサンスの契機である花咲く梨の木が、マドレーヌに出現したキリストの面影と重なりあう、白衣の大天使たちに変身する場面である。
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庭にみかけたあの〔梨と桜の〕灌木を異国の神々と思いこんだとき、私は マドレーヌ〔マグダラのマリア〕がべつのある庭で、ある日ーーやがて今年もその記念日を迎えようとしているのだがーー人影を認めて、「その人を庭の番人だと思った」ときと同じような間違いをおかしたのではなかったか? 昼寝や魚釣り、読書に恰好の木陰のうえに神韻たる面持ちで身を傾けたこれらの大柄な白衣の女性たち、彼女たちは黄金時代の思い出を守護するものであり、現実とは人が考えているようなものではなく、詩の光耀と無垢の奇蹟的な煌めきがそこに燦然とかがやきわたることもあるばかりか、われわれも努力すれば報酬としてこの光輝をうけるに値するものになれるのだという約束を保証するものとして、むしろ天使たちではながったのだろうか? (「ゲルマントのほう」)
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Ces arbustes que j'avais vus dans le jardin, en les prenant pour des dieux étrangers, ne m'étais-je pas trompé comme Madeleine quand, dans un autre jardin, un jour dont l'anniversaire allait bientôt venir, elle vit une forme humaine et « crut que c'était le jardinier » ? Gardiens des souvenirs de l'âge d'or, garants de la promesse que la réalité n'est pas ce qu'on croit, que la splendeur de la poésie, que l'éclat merveilleux de l'innocence peuvent y resplendir et pourront être la récompense que nous nous efforcerons de mériter, les grandes créatures blanches merveilleusement penchées au-dessus de l'ombre propice à la sieste, à la pêche, à la lecture, n'était-ce pas plutôt des anges ? (II, 160-161).
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梨の木の、身をかがめた大柄な白衣の女性たちへの変身、次に天使たち (《黄金時代》がすぎさった今は、この時代の〈思い出の守護》天使たち)への変身がわれわれの脳裡にかきたてるのは、しかしキリストのイメージよりむしろ母親像のそれである[C'est moins vers l'image du Christ que vers celle de la figure maternelle]。
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暗喩の作業が、レミニサンスの契機となる要素を通して、レミニサンスが根本的に何を対象としているかを浮かびあがらせようとしているのだ。 マドレーヌがラスクに取って代った作品上の意味は、それもやはりレミニサンスの根本的対象、すなわち母[l'objet fondamental de la réminiscence : la mère]を韜晦的に表象することなのである。となると、プルーストの象徴的礼拝において、復活祭がなぜ他の何にもまして祝祭であるかという理由もわかってくる。たしかにそてが春の祝日で、話者がコンプレに出かける休暇の時期だということもあるが、象徴的観点からいうとそれが、マドレーヌにとってはキリストの、話者にとっては〈母〉の復活の祭でもあるからなのだ。それは、レミニサンスの祝祭なのである[c'est la fête de la résurrection : du Christ pour Madeleine, de la Mère pour le narrateur. C'est la fête de la réminiscence.]。(…)
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マドレーヌと母胎あるいは乳房体験
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諸イメージを結晶化するのは、直接味覚のうえにではない。だが味覚のまわりにであることは疑問の余地がない。味覚は結晶作用の核である[la saveur est le foyer de la cristallisation]。マドレーヌ菓子とは何をするものか。食べる物である。
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すこしすると叔母は、その枯葉やしおれた花を賞味する煮立った煎じ薬のなかに、プチット・マドレーヌを浸して、ほどよく柔らかくなったところでその一かけらを私に差し出すのだった。(「スワン家のほうへ」)
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Bientôt ma tante pouvait tremper dans l'infusion bouillante dont elle savourait le goût de feuille morte ou de fleur fanée une petite madeleine dont elle me tendait un morceau quand il était suffisamment amolli (I, 52).
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(…)より《詩的な》味覚の質的様相をさしおいて、このように母親との食物的ロ唇的間係を強調するようにわたしにしむけたのは、テクストでは他の二つの挿話がそれと隣接しておかれているからである。一つはそれまでに読んだ三○頁の主要テーマをなしている夜のキスであり、その意図は顕在的に表現されている。もう一つは、凝りに凝った文章で書かれた、レオニー叔母の例の 二間つづきの部屋を想起するくだりであり、マドレーヌの菓子の最初の摂取も、まさにこの部屋でおこなわれている。
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わたしはこの部屋で道草をくっていくことにする。それはうわべは装飾過多で幻想的でさえある描写の見本のようなもので、部屋が一箇の菓子、果物の砂糖煮を詰めた巨大な 《ショーソン》に変貌するのである。文体の戯れによって、まず匂いが、安心感をあたえる母親の特質をことごとく具備した女性へと変貌し、ついで人を包みこむ側面(外部との隔離、熱さ)[son aspect enveloppant (séparation d'avec le dehors, chaleur) ]と食物的側面(それは人がなかに浸っている食物である)[son aspect nutritif (nourriture dans laquelle on baigne)]という母親の主要な二つの側面[les deux aspects principaux de la mère]が(この隠喩の結晶作用に必要なあらゆる《要素》を物語のなかにすこしづつ導入していく巧妙な伏線を張りめぐらした後で)、いきなりただ一つのイメージへと統合される。
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プルーストがその部屋を領している沈黙について、《nourrissant(『栄養がある」の他に「乳母の」という意味がある)》といっているのは偶然ではない。問題なのは偶発的な特質ではなく、乳母という本質的機能なのである。部屋と巨大なショーソン(パイ)が相似ているとも、テクストでは名を呼ばれることのないあるモデルとそれぞれに似通っているからであり、そのモデルとは、子供が《一種の大食的欲望 une sorte de gourmandise 》と《ひそかな渇望 une convoitise inavouée》と呼ぶ感情のうちに、その奥底のぬめりにまた身を絡め取られることを夢みる、庇護し授乳=栄養補給する母胎[le ventre maternel, protecteur et nourricier]のことなのである。
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何故《ひそかな》なのか?……プルーストの《菓子類》 は取りあげれば立派に一個の研究論文となるべきものである。といっても料理研究の視点からではなく、単に世界とのロ唇的関係の特権的表象の一つとして論じるのだが。一瞬わたしは、こう体系化できないかという気がした、ショーソン(パイ)は内側から夢想するかぎりでの母胎を、マドレーヌは外側から夢想する母胎を表現しているのだと[le chausson représente le ventre maternel, tel qu'on le rêve dans son intérieur ; la madeleine, dans son extérieur]。もっともここでは、マドレーヌ菓子のエピソードは、とどのつまりは最初の乳房体験へとさかのぼる、母親との一連のロ唇的関係(食物、キス)の一環をなすのだというだけにしておこう[Mais je retiens seulement que l'épisode de la madeleine est pris dans une série de rapports oraux avec la mère (nourriture, baiser), renvoyant en fin de compte à l'expérience première du sein.]。
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(フィリップ・ルジェンヌ「エクリチュールと性」川中子弘訳 ーー「ユリイカ」プルースト総特集、1987年所収ーー訳語をいくらか変更)
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あとはプルーストの次の文を引用して、フロイトラカンを続けたらいいだけだ。
異者はかつての少年の私だった l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors
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私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた異者は、と自問したのだった。その異者は私自身だった、かつての少年の私だった。
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je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie) La Bibliothèque électronique du Québec, p40)
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フロイトの異物とは「異者としての身体」であり、プルーストの異者とドンピシャである。
個人の初期の記憶痕跡は異物 Fremdkörperのように分離されている
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個人の初期の記憶痕跡は、その個人のなかに保存されている。しかし独特な心理学的条件でである。…忘却されたもの は消滅されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗リビドー(対抗備給 Gegenbesetzungen)により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離されている。
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Die Erinnerungsspur des früh Erlebten ist in ihm erhalten geblieben, nur in einem besonderen psychologischen Zustand. […] Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«, seine Erinnerungsspuren sind in aller Frische vorhanden, aber durch »Gegenbesetzungen« isoliert. […] Sie können sind unbewußt, dem Bewußtsein unzugänglich. Es kann auch sein, daß gewisse Anteile des Verdrängten sich dem Prozeß entzogen haben, der Erinnerung zugänglich bleiben, gelegentlich im Bewußtsein auftauchen, aber auch dann sind sie isoliert, wie Fremdkörper außer Zusammenhang mit dem anderen. (フロイト『モーセと一神教』1939年)
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異物は自我の異郷部分であり、エスの欲動蠢動を起こす
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物Fremdkörperとは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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異物はトラウマないしトラウマの記憶である
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トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 [Fremdkörper] ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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ラカンを続けよう。レミニサンスという語まで出現する。異者は必ずレミニサンスするのである。
異者=非自我=モノ=現実界=トラウマ ➡︎ レミニサンス
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非自我は異者としての身体、異物として現れる le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt (Lacan, S11, 17 Juin 1964)
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モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを「強制 forçage」呼ぼう。…これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscence」と呼ばれるものによって。
Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage. […] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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母もレミニサンスするし、女性器もレミニサンスする。これがルジェンヌが言っていることだ。
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異者=対象a=母
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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母は構造的に対象aの水準にて機能する。C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а). (Lacan, S10, 15 Mai 1963)
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異者=モノ=母=享楽の対象=喪われた対象
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モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
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モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
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享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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異者=不気味なもの=内的反復強迫=女性器
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
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女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
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さらに中井久夫とジャック=アラン・ミレールで補っておこう。
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幼児型記憶はトラウマ的であり、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。
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外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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トラウマ的記憶には喜ばしい記憶もある
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PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
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異物=現実界=享楽=モノ=フロイトのエス
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現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
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モノを 、フロイトは異物とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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先のほうに引用したラカンの「現実界=トラウマ=強制➡︎レミニサンス」については、ミレールは次のように注釈している。
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強制とは基本的に、トラウマと呼ばれるものの初めの強制の反復である。幻想の仮面の背後には、現実界との出会いがあり、この出会いは常にトラウマの価値をもっている。
Un forçage, au fond, répétant ce forçage initial qui s'appelle le traumatisme. Derrière le voile du fantasme il y a la rencontre du réel et cette rencontre a toujours valeur de traumatisme. (J.-A. MILLER, - La vie de Lacan - Cours n°2 - 03/02/2010)
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かつまた異者と強制を等置している。