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2020年9月24日木曜日

ビロードのスリッパ派

退行、つまり幼児化が常にいいわけはないのは勿論のことだけれど、たまにはそうしないとな。


何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。…

思い返せば、著述とは、宇宙船の外に出て作業する宇宙飛行士のように日常から離脱し、頭蓋内の虚無と暗黒とに直面し、その中をさしあたりあてどなく探ることである。その間は、ある意味では自分は非常に生きてもいるが、ある意味ではそもそも生きていない。日常の生と重なりあってはいるが、まったく別個の空間において、私がかつて「メタ私」「メタ世界」と呼んだもの、すなわち「可能態」としての「私」であり「世界」であり、より正確には「私 -世界」であるが、その総体を同時的に現前させれば「私」が圧倒され破壊されるようなもの、たとえば私の記憶の総体、思考の総体の、ごく一部であるが確かにその一部であるものを、ある程度秩序立てて呼び出さねばならなかった。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)
※「メタ私」については、➡︎参照

退行とは、前エディプス期への退行、基本的には言語外のリアルな身体の世界に向かうことだ。
いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。/この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

ラカン派なら、愛と欲望の世界から享楽の世界へ、である。《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 2011)。



そしてこのリアルな身体とは、自我にとって異者としての身体だ。

自己身体の享楽はあなたを異者としての身体にする。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

ここでドゥルーズを引こう。

固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


この固着によってエスに放り投げられた身体が、フロイトの異物(異者としての身体 Fremdkörper)だ。

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)
異物Fremdkörperとは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

この固着とは身体の出来事が心的装置に翻訳されずエス(現実界)のなかに異者身体として置き残されるということで、別名トラウマへの固着、享楽の固着。何度も引用しているから、ここでは簡潔版の画像を貼り付けておこう。





この固着によってエスに置き残された異者としての身体が、エスの身体、夜を夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる身体である。
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!
- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

ボクはアルトーをよく知らないが、アルトーの身体はたぶんこのニーチェの「エスの身体」じゃないかな。

私の内部の夜の身体を拡張すること
私自身の内部の無から
あの夜
あの虚無から
dilater le corps de ma nuit interne,
du néant interne de mon moi
qui est nuit
néant,

ーーアントナン・アルトーAntonin Artaud , Supprimer l'idée


そしてこの身体がタナトスの身体であり、強制された運動の機械である。

強制された運動の機械(タナトス)[machines à movement forcé (Thanatos)]で(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第2版 1970年)
強制された運動は、タナトスもしくは反復である。 le mouvement forcé […] c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)

さらに言えば、この異者としての身体がレミニサンスを惹き起こす。

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを「強制 forçage」呼ぼう。…これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscenceと呼ばれるものによって。
Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage.  [] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

愛や欲望という幻想の背後には、必ずこの身体がある。

強制とは基本的に、トラウマと呼ばれるものの初めの強制の反復である。幻想の仮面の背後には、現実界との出会いがあり、この出会いは常にトラウマの価値をもっている。Un forçage, au fond, répétant ce forçage initial qui s'appelle le traumatisme. Derrière le voile du fantasme il y a la rencontre du réel et cette rencontre a toujours valeur de traumatisme.  (J.-A. MILLER, - La vie de Lacan - Cours n°2 - 03/02/2010)
現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

このリアルの穴は、《無意志的回想のブラック・ホール[Le narrateur mâchouille sa madeleine : redondance, trou noir du souvenir involontaire]》(ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)でもある。

『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。われわれに見ることを強制する印象とか、われわれに解釈を強制する出会いとか、われわれに思考を強制する表現、などである。Le leitmotiv du Temps retrouvé, c'est le mot forcer : des impressions qui nous forcent à regarder, des rencontres qui nous forcent à interpréter, des expressions qui nous forcent à penser.(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「結論 思考のイマージュ」第2版、1970年)
過去の復活 résurrections du passé は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制されElles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所 les lieux présents とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられる。(プルースト「見出された時」)

理知の世界、つまり愛や欲望の世界に留まっているのもいいさ、でもそれではニーチェやプルーストの文体のビロードの肌触りはでない。

軽やかに音もなく走りすぎていくものたち、わたしが神々しいトカゲと名づけている瞬間を、すこしのま釘づけにするという、けっして容易ではない技術[Die Kunst, die es voraus hat, ist keine kleine darin, Dinge, die leicht und ohne Geräusch vorbeihuschen, Augenblicke, die ich göttliche Eidechsen nenne, ein wenig fest zu machen](ニーチェ『この人を見よ』)

ーー最上の俳句や詩はこんな感じだな、《女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午》(西脇順三郎『鹿門』)


詩人的にあるいは芸術家的に振舞いたかったら異者としての身体と是非ともコンニチワしないとな。

理知が摘みとってくる真実ーーこの上もなく高次な精神の理知であっても、とにかく理知が摘みとってくる真実l'intelligence – même des plus hauts esprits – cueille à claire-voie, ーー透かし窓から、まんまえから、光のただなかで、摘みとってくる真実についていえば、なるほどその価値は非常に大きいかもしれない。しかしながらそのような真実は、より干からびた輪郭をもち、平板で、深さがない、というのは、そこには、真実に到達するために乗りこえるべき深さがなかったからであり、そうした真実は再創造されたものではなかったからだ。心の奥深くに神秘な真実があらわれなくなった作家たちは、ある年齢からは、理知にたよってしか書かなくなることが多い、彼らにはその理知が次第に力を増してきたのだ、それゆえ、彼らの壮年期の本は、その青年期の本よりも、はるかに力強くはあるが、そこにはもはやおなじようなビロードの肌ざわりはない。ils n'ont plus le même velours. (プルースト「見出された時」)

ボクはどっちかといえば、そこまで潜らず潜れず、「ビロードのスリッパ」という中途半端に専念したくなる資質なんだけどさ。怖いからな、やっぱりあの穴は。それが「蚊居肢」の意味だよ。深淵を垣間見てもすぐさまフェティッシュで防衛するってことだ。ま、真に書く才能がないと言ってもいい。せいぜい批評だな。

ある男がいる。現在、女の性器や他の魅力 [das Genitale und alle anderen Reize des Weibes]にまったく無関心な男である。だが靴を履いた固有の形式の足にのみ抵抗しがたい性的興奮[unwiderstehliche sexuelle Erregung ]へと陥る。

彼は6歳のときの出来事を想い起こす。その出来事がリビドーの固着[Fixierung seiner Libido]の決定因だった。

彼は背もたれのない椅子に座っていた。女の家庭教師の横である。初老の干上がった醜いオールドミスの英語教師。血の気のない青い目とずんぐりした鼻。その日は足の具合が悪いらしく、ビロードのスリッパ Samtpantoffelを履いてクッションの上に投げ出していた。

彼女の脚自体はとても慎み深く隠されていた。痩せこけた貧弱な足。この家庭教師の足である。彼は、思春期に平凡な性行動の臆病な試み後、この足が彼の唯一の性的対象になった。男は、このたぐいの足が英語教師のタイプを想起させる他の特徴と結びついていれば、否応なく魅惑させられる。彼のリビドーの固着は、彼を足フェチ[Fußfetischisten]にしたのである。(フロイト『精神分析入門』第22章、1916-17年)

……………

ドゥルーズ は器官なき身体について時期によりまちまちのことを言っているが、プルースト論第3版(1976)に現れる「器官なき身体」は、フロイトラカンの「異者としての身体」であることは間違いない。「強制」という語が使われたり、「無意志的記憶」にかかわるとされているから。


クモという「器官なき身体」
しかし器官なき身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。
Mais qu'est-ce que c'est, un corps sans organes ? L'araignée non plus ne voit rien, ne perçoit rien, ne se souvient de rien. Seulement, à un bout de sa toile, elle recueille la moindre vibration qui se propage à son corps en onde intensive, et qui la fait bondir a rendrait nécessaire. Sans yeux, sans nez, sans bouche, elle répond uniquement aux signes, est pénétrée du moindre signe qui traverse son corps comme une onde et la fait sauter sur sa proie.
『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手 = クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれそれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。
La Recherche n'est pas bâtie comme une cathédrale ni comme une robe, mais comme une toile. Le Narrateur-araignée, dont la toile même est la Recherche en train de se faire, de se tisser avec chaque fil remué par tel ou tel signe : la toile et l'araignée, la toile et le corps sont une seule et même machine. 
語り手に極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で有機的ないかなる使用もできない範囲で、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、余儀なく強制されるときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描としてである。
Le narrateur a beau être doué d'une sensibilité extrême, d'une mémoire prodigieuse : il n'a pas d'organes pour autant qu'il est privé de tout usage volontaire et organisé de ses facultés. En revanche, une faculté s'exerce en lui quand elle est contrainte et forcée de le faire; et l'organe correspondant se pose sur lui, mais comme une ébauche intensive éveillée par les ondes qui en provoquent l'usage involontaire. 
そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する「器官なき身体」の包括的で強度な反作用として存在する無意志的感受性、無意志的記憶、無意志的思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれを開けるか閉じるために動くのは、この身体 = 巣 = クモである。
Sensibilité involontaire: mémoire involontaire, pensée involontaire qui sont chaque fois comme les réactions globales intenses du corps sans organes a des signes de telle ou telle nature. C'est ce corps-toile-araignée qui s'agite pour entrouvrir ou pour fermer chacune des petites boîtes qui viennent heurter un fil gluant de la Recherche. 
語り手の異者的可塑性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人ーー普遍的な分裂症者である語り手のこの身体= クモが、そこから自分自身の錯乱の操り人形、おのれの器官なき身体の強度な力、おのれの狂気の輪郭を作るために、パラノイアであるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。
Étrange plasticité du narrateur. C'est ce corps-araignée du narrateur, l'espion, le policier, le jaloux, l'interprète et le revendicateur ― le fou ― l'universel schizophrène qui va tendre un fil vers Charlus le paranoïaque, un autre fils vers Albertine l'érotomane, pour en faire autant de marionnettes de son propre délire, autant de puissances intensives de son corps sans organes, autant de profils de sa folie. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能ーークモーー」第3版追加箇所、 1976年)



しかも『千のプラトー』では器官なき身体は実際は、「有機体なき身体」だというようになった。

「器官なき身体 corps sans organes」
➡︎「有機体なき身体 corps sans l'organisme」
われわれはしだいに、CsO(器官なき身体:引用者)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』1980年)
Nous nous apercevons peu à peu que le CsO n'est nullement le contraire des organes. Ses ennemis ne sont pas les organes. L'ennemi, c'est l'organisme. Le CsO s'oppose, non pas aux organes, mais à cette organisation des organes qu'on appelle organisme. Il est vrai qu'Artaud mène sa lutte contre les organes, mais en même temps c'est à l'organisme qu'il en a, qu'il en veut : Le corps est le corps. Il est seul. Et n'a pas besoin d'organes. Le corps n'est jamais un organisme. Les organismes sont les ennemis du corps. Le CsO ne s'oppose pas aux organes, mais, avec ses « organes vrais » qui doivent être composés et placés, il s'oppose à l'organisme, à l'organisation organique des organes. (MILLE PLATEAUX, p196)