何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。…
思い返せば、著述とは、宇宙船の外に出て作業する宇宙飛行士のように日常から離脱し、頭蓋内の虚無と暗黒とに直面し、その中をさしあたりあてどなく探ることである。その間は、ある意味では自分は非常に生きてもいるが、ある意味ではそもそも生きていない。日常の生と重なりあってはいるが、まったく別個の空間において、私がかつて「メタ私」「メタ世界」と呼んだもの、すなわち「可能態」としての「私」であり「世界」であり、より正確には「私 -世界」であるが、その総体を同時的に現前させれば「私」が圧倒され破壊されるようなもの、たとえば私の記憶の総体、思考の総体の、ごく一部であるが確かにその一部であるものを、ある程度秩序立てて呼び出さねばならなかった。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)
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※「メタ私」については、➡︎[参照]
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退行とは、前エディプス期への退行、基本的には言語外のリアルな身体の世界に向かうことだ。
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いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。/この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
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ラカン派なら、愛と欲望の世界から享楽の世界へ、である。《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 2011)。
そしてこのリアルな身体とは、自我にとって異者としての身体だ。
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自己身体の享楽はあなたを異者としての身体にする。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
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ここでドゥルーズを引こう。
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固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
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この固着によってエスに放り投げられた身体が、フロイトの異物(異者としての身体 Fremdkörper)だ。
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原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)
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異物Fremdkörperとは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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この固着とは身体の出来事が心的装置に翻訳されずエス(現実界)のなかに異者身体として置き残されるということで、別名トラウマへの固着、享楽の固着。何度も引用しているから、ここでは簡潔版の画像を貼り付けておこう。
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ドゥルーズ は器官なき身体について時期によりまちまちのことを言っているが、プルースト論第3版(1976)に現れる「器官なき身体」は、フロイトラカンの「異者としての身体」であることは間違いない。「強制」という語が使われたり、「無意志的記憶」にかかわるとされているから。
しかも『千のプラトー』では器官なき身体は実際は、「有機体なき身体」だというようになった。
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2020年9月24日木曜日
ビロードのスリッパ派
退行、つまり幼児化が常にいいわけはないのは勿論のことだけれど、たまにはそうしないとな。