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2020年9月24日木曜日

不気味な異者としての女

質問をもらっている。私はこの1年間に限っても20〜30回程度は記しているはずだが、散漫な書き方が悪いのだろう。以下、エキスを示す。

なによりもまずフロイトラカンの以下の語彙・表現群はすべて等価である。



ただしこのなかで対象aだけは、その多義性ゆえに注意しなければならない。



装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
不気味な残滓がある。il est resté unheimlich   (Lacan, S10, 19  Décembre  1962)


すなわち穴と穴埋めと残滓(異者)である。


もっともすべての人は、穴に対する防衛としての穴埋めをもっている。身体から湧き起こる欲動の奔馬(穴)を飼い馴らす最初の鞍は、乳幼児の最初の世話役ーーおおむね母ーーによってなされる。これが原穴埋めであり、原抑圧≒固着とも呼ぶ。ただしその穴埋めは完全にはなされず必ず残滓がある。これが異者(異者としての身体)である。したがって事実上は、人は純粋な穴ではなく、異者という穴があり、発達段階のなかで、その防衛としての穴埋めがあると捉えうる。

さて冒頭図の「引力」については「穴という引力」を見よ。異者については「異者文献」、モノについては「モノ文献」などに引用の列挙があるが、ここではそこからわかりやすいようにエキスだけを抜き出し、確認用引用列挙簡潔版とする。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽の対象Objet de jouissance は、モノ La Choseであり、喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

モノとしての享楽は斜線を引かれた大他者と等価である。la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. MILLER, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
穴の最も深淵な価値は、斜線を引かれた大他者である。le trou,[…] c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. (J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)




……………


以下、もういくらか詳しく。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)



自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物Fremdkörperとは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](フロイトが固着Fixierungと呼んだもの)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
サントームはモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノの名のもとに、われわれは原外密を位置付ける。モノは異者である。Sous le nom de das Ding, on situe l'extimité primordiale, …la Chose […]est étrangère. (J.-A. Miller, Extimité, 20 novembre 1985)


以上、リアルな症状としてはサントームは異者の名であることを示した。



ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


ーー《ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté. 》 (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

フロイトラカン理論における核心は異者としての身体であり、かつそれに対していかに防衛するかである。この異者としての身体は、別名「自ら享楽する身体」と呼ばれる。要するにリアルな身体である。

ラカンが導入した身体は自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]である。(…)この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着[fixation de la libido]あるいは欲動の固着[fixation de la pulsion.]である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matérie]、固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない[celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas,]。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


ラカンの《ひとりの女は異者である une femme […] c'est une étrangeté》は、たとえばフロイトの次の文とともに読むことができる。

女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への拘束として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、死後出版1940年)