なによりもまずフロイトラカンの以下の語彙・表現群はすべて等価である。
ただしこのなかで対象aだけは、その多義性ゆえに注意しなければならない。
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以下、もういくらか詳しく。
以上、リアルな症状としてはサントームは異者の名であることを示した。
ただしこのなかで対象aだけは、その多義性ゆえに注意しなければならない。
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
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ラカンは享楽と剰余享楽 [la jouissance du plus-de-jouir]を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。…対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon]なのである。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)
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享楽は、残滓 (а) を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а) (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
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異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste, (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
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不気味な残滓がある。il est resté unheimlich (Lacan, S10, 19 Décembre 1962)
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すなわち穴と穴埋めと残滓(異者)である。
もっともすべての人は、穴に対する防衛としての穴埋めをもっている。身体から湧き起こる欲動の奔馬(穴)を飼い馴らす最初の鞍は、乳幼児の最初の世話役ーーおおむね母ーーによってなされる。これが原穴埋めであり、原抑圧≒固着とも呼ぶ。ただしその穴埋めは完全にはなされず必ず残滓がある。これが異者(異者としての身体)である。したがって事実上は、人は純粋な穴ではなく、異者という穴があり、発達段階のなかで、その防衛としての穴埋めがあると捉えうる。
さて冒頭図の「引力」については「穴という引力」を見よ。異者については「異者文献」、モノについては「モノ文献」などに引用の列挙があるが、ここではそこからわかりやすいようにエキスだけを抜き出し、確認用引用列挙簡潔版とする。
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
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モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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享楽の対象Objet de jouissance は、モノ La Choseであり、喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970、摘要)
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対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)
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ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté. (Lacan, S25, 11 Avril 1978)
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モノとしての享楽は斜線を引かれた大他者と等価である。la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. MILLER, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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穴の最も深淵な価値は、斜線を引かれた大他者である。le trou,[…] c'est la valeur la plus profonde, si je puis dire, de grand A barré. (J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
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現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
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フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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以下、もういくらか詳しく。
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物Fremdkörperとは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
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欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](フロイトが固着Fixierungと呼んだもの)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)
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サントームはモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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モノの名のもとに、われわれは原外密を位置付ける。モノは異者である。Sous le nom de das Ding, on situe l'extimité primordiale, …la Chose […]est étrangère. (J.-A. Miller, Extimité, 20 novembre 1985)
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以上、リアルな症状としてはサントームは異者の名であることを示した。
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
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サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
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ーー《ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté. 》 (Lacan, S25, 11 Avril 1978)
フロイトラカン理論における核心は異者としての身体であり、かつそれに対していかに防衛するかである。この異者としての身体は、別名「自ら享楽する身体」と呼ばれる。要するにリアルな身体である。
フロイトラカン理論における核心は異者としての身体であり、かつそれに対していかに防衛するかである。この異者としての身体は、別名「自ら享楽する身体」と呼ばれる。要するにリアルな身体である。
ラカンが導入した身体は自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]である。(…)この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着[fixation de la libido]あるいは欲動の固着[fixation de la pulsion.]である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matérie]、固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない[celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas,]。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
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