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2020年9月13日日曜日

「メタ私」について


「一体われわれが思いださない回想とはなんだろう?」とプルーストは書いているが、これがなによりもまずプルーストの無意識のベースである。

われわれは、自分のすべての記憶を、自分に所有している。ただ、記憶の全部を思いだす能力をもっていないだけだ、とベルグソン氏の説にしたがいながら、ノルウェーのすぐれた哲学者はいった(……)。しかし、一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?  
Nous possédons tous nos souvenirs, sinon la faculté de nous les rappeler, dit d'après M. Bergson le grand philosophe norvégien... Mais qu'est ce qu'un souvenir qu'on ne se rappelle pas? (プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)

そして無意志的記憶(mémoire involontaire)と意志的記憶(mémoire volontaire)を区別するが、これが基本的にはーーつまり厳密さを期さなければーーほぼラカンのいう《レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。》(S.23, 1976)ーーの「レミニサンス/想起」であり、前者がリアル、後者がシンボリック。フロイトなら「身体的なもの/心的なもの」。

私の作品はたぶん一連の 「無意識の小説 Romans de l'Inconscient」 の試みのようなものでしょう。(……)「ベルクソン的小説」というのは正確さを欠く言い方になるでしょう。なぜなら私の作品は、無意志的記憶(mémoire involontaire)と意志的記憶(mémoire volontaire)の区別に貫かれていますが、この区別はベルクソン氏の哲学に現れていないばかりでなく、それと矛盾するものでさえあるからです。 (Interview de Marcel Proust par Élie-Joseph Bois, parue dans le journal “Le Temps” du 13 novembre 1913)


前々回引用したプルースト文も短くして再掲すれば次の通り。

これは極めて現実的な(リアルな)書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
私は作品の最後の巻―ーまだ刊行されていない―ーで、無意識の再想起の上に私の全芸術論をすえるje trouve à ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art, (Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)


基本的にはこういう区別があるが、身体的な無意識と心的な無意識両者も含め、もはや陳腐化してしまった「無意識」という語は、「メタ私」のほうがいいんじゃないかと中井久夫は言っている。

かつて三島由紀夫が《無意識というものは、絶対におれにはないのだ》とか、最近でもさる売れっ子の批評家が《グローバル資本主義によって、「無意識が奪われていっている」》とか言っているが(参照)、ーーこれらは仮に「ないこともありうる」と肯定的に受け取っても、単に心的な無意識(抑圧された無意識)のレベルの話でありーー、「身体の記憶」としての無意識(フロイトの「非抑圧的無意識nicht verdrängtes Ubwは必ずある。こういう気合い系の「無意識はない」などという言葉遣いをしてしまうインテリたちにまともな精神科医はウンザリしているはずで、その意味も含めて中井久夫は「メタ私」概念を提示しているように見える。

以下列挙するが、この定義なら誰もが「メタ私」がないわけないとすぐ悟るだろうから。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)

「意識的私」の内容になりうるものであって現在はその内容になっていないものの総体を私は「メタ私」と呼んできた。これは「無意識」よりも悪くない概念であるとひそかに私は思っている。(…)「無意識」は「意識」でないものとして多種多様なものを含んでいて、それらを総称する言葉はないからである。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)

私には、私の現前する意識には収まりきれないものが非常に多くある。私の幼児体験を初めとして、私の中にあるのかないのか、何かの機会がなければためすことさえない記憶がある。私の意識する対象世界の辺縁には、さまざまの徴候が明滅していて、それは私の知らないそれぞれの世界を開くかのようである。これらは、私の現前世界とある関係にある。それらを「無意識」と呼ぶのはやさしいが、さまざまな無意識がある。フロイト的無意識があり、ユング的無意識もおそらくあるだろう。ふだんは意識されずに動いていて意識により大きな自由性をあたえている、ベルグソンの身体的無意識もある。あるいは、熟練したスポーツなどに没頭する時の特別な意識状態があるだろう。無意識というものを否定する人があるとしても、意識が開放系であり、また緻密ではなく、海綿のように有孔性であることは認めるだろう。そもそも記憶の想起という現象が謎めかしいものである。どういう形で、記憶が私の「無意識」の中に持続しているのかは、いうことができない。もし、私の中にあるものが同時に全部私の意識の中に出現し、私の現前に現れたならば、私は破滅するであろう。それは、四次元の箱を展開して三次元に無理に押し込むようなものだろう。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

敢えて私自身の言葉を用いれば、〔『失われた時を求めて』の〕マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」一九九〇年、『徴候・記憶・外傷』みすず書房、二〇〇四年版所収)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが( …)、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。( …)それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveurをももたらしうるものである。

「心の間歇」を頂点として左右を眺めれば、日常茶飯事的解離は「生活に必要な技術」である。同時に二つ以上のことを混乱なく行うのに不可欠なのが日常的解離である。家事は日常茶飯事的小解離に満ち満ちている。これに対して、極端な病的解離には危機的状況を保護する生命的な働きがある。ライオンに食べられかかった男が助かって語ったところによれば、恍惚としてひとごとのようであり、また、ライオンに食べられている自分の姿が見えたそうである(アフリカで共に狩猟をした友人の談)。後者は自己像幻視であって解離現象の一つであるが、能役者は「離見の見」といって自覚的にできるそうである。ヒトが食べられて死ぬのが普通だった時代に、この世から立ち去るのをやさしくする装置として解離があったといえそうである。それが今ならば治療を必要とする異常になっているとしても、それは免疫が自己免疫にもなりうるのと同じである。

ここで私の「メタ私」「メタ世界」概念に少し言及しておきたい。「メタ私」は無意識に近い。しかし、フロイトのコンプレックスやユングのアーキタイプが支配するところではない。ベルクソンは「心臓をはじめとする内臓器官の無意識活動があって、もしこれらを意識的に動かしていたら意識に余力はないだろう」と考えていた。この「ベルクソンの無意識」をも含むものであり、内分泌系や自律神経系の活動をも含み、さらにたとえばテニス中に起こる小脳と前頭前野との間の神経信号の猛烈な往復をも含むものである(これは京大の生理学者・佐々木和夫教授の名をいただいて「佐々木の無意識」というべきであろうか)。さらに運動のみならず大脳の記憶や思考の活動をも沈黙のうちにモニターしている小脳の活動をも知るべきであろう。外界の刺激を直接受けない小脳は脳/マインドのジャイロスコープというべく、刺激に翻弄される大脳活動を安定化し、エネルギーを経済的にし、能率を向上させる。小脳の役割について大きな進歩と転換を示した理化学研究所所長の名をいただいて「伊藤正男の無意識」というのがよかろう。

「メタ私」は同時に意識に現前したならば、意識は潰乱し、おそらく脳/精神は無傷で済まないであろう。八十歳を越える高齢になってから最近にわかに脚光を浴びているベンジャミン・リベットの仕事によれば、意識はせいぜい二〇~四〇ビットの情報で理性的・倫理的判断を行うのであり、これが「エゴ」であって、エゴはそれに〇・五秒先行する一〇の七乗ビットの「セルフ(私のいう〈メタ私〉か)の判断を受けて、あたかもおのれが今リアルタイムで行っているかのように判断するという。

科学報告はしばしば断りなしに変わる。そのリスクがつねに存在するが、二〇年以上の風雪に耐えてようやく陽の目をみたリベットの仕事は、「心の間歇」と関連させても一考に値すると私は思う。「メタ私」から「私」への経路は多少とも鍵と鍵穴によって守られているのである。

「メタ私」に対応して「メタ世界」がある。私は可能性としてはあらゆる世界を体験できるが、それを同時にすることはできない。おそらく、メタ私もメタ世界も私あるいは世界よりも次元が高いのであろう。

この「メタ私」の一挙現前を制止しているシステムがあるはずである。言語はいっときには一つの音しか発声できないシステムを用いることによって、この制御にほぼ成功した。もっとも、統合失調症の初期にはこのシステムが怪しくなるときがあるらしい。解離していたものの意識への一挙奔入である。

これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。

われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。

解離は必ずしも破壊者ではない。社会生活に不都合を生むにせよ、むしろ保護的なものである。侵入体験を消失する薬物を、効果を認めながら、断乎拒んだ家族内暴力被害患者を思い合わせる。おそらく、身体の傷と同じく、心の傷も治癒はしかるべき歩調で、そして患者主体で進行しなければならないのであろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって ――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」2006年『日時計の影』所収)