「『近代絵画』とジャコメッティ 」(井原慶一郎、2004、PDF)にあるジャコメッティの「二、三人の若い娘たち」ってのはとってもいい。
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ジャコメッティは、ヴェネツィアでマニエリスムの画家ティントレットに夢中になった。《ティントレットは私にとって驚くべき発見であり、私をとりかこんでいる実在界の反映に他ならぬ新たな世界に開かれたカーテンであった》。しかし、1月後、彼はパドヴァに行き、アレーナ礼拝堂でジオットのフレスコ画に衝撃を受ける。《一撃はまたティントレットにも及んだ。ジオットの力はどうしようもなく私にのしかかり、しばしばキリストの頬に触れるマリアの手のなかにあるような優しさと表情とを重々しもつ正確で綴密な身振りやあの玄武岩のように桐密な不易の人物に、私は圧倒された。…ティントレットの作品は暖味でとりとめもないものとなった》。しかし、と彼は続ける。同じ日の宵、これらの感情は彼の前を歩いていた二、三人の若い娘たちによって覆される。《彼女たちは私にどんな比較の観念も及ばぬ果しないものだと思われ、彼女たちの全存在、いかなる動きにも恐るべき暴力が充満しているのだった。……ティントレットの絵もジオットの絵も同時に、小さな、弱い、だらけた、堅さのないものとなった》(ジャコメッティ 『エクリ』)
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ーーこれは、どんな美しい芸術でも二、三人の若い娘たちの暴力的美のようにはカタくならないってことだろうか?
実は「一九六五年三月、ブラッサイはジャコメッティを最後に訪ねた」というのをネット上で拾おうとしてついでに上の文に行き当たったのだが。
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すっかり衰弱してしまった彼は、立っていられるとしてもほんのわずかの時間だった。彼は両手で画架にしがみついていた。「ブラッサイ、このままで写真を撮ってくれ……。このポーズがまさに私の体の状態にふさわしいんだ。私はぼろきれのような人間、敗残者にすぎない…。それでもなお、ごらんのとおり、私ははたらいている、仕事をつづけているんだ。昨日の晩は、真夜中まで、夢中になってこの胸像に取り組んでいた。そして朝の三時に、眠るかわりにラ・クーボールまでいってきた後で、七時まで制作をつづけたんだ。私はほとんど寝なかった。そして起き上がると、この胸像に早く戻りたくて、コーヒー一杯飲むひまもないほどなんだ……」(ブラッサイ『わが生涯の芸術家たち』岩佐鉄男訳)
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ヴァレリー =ドガも貼り付けておこう。
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彼は七十歳の時に(……)こう言った、「我々は、現在我々がやっていることよりも、何時かは為し得るだろうことについて、自信を持たなければならない。でなければ仕事なんて意味がない。」
七十歳の時にである……。
これこそあらゆる虚栄心から人を救う真の驕慢である。ちょうどトランプや将棋の愛好者が、遊んでいる時のことを忘れず、就寝後も闇の中にトランプのテーブルや将棋盤を見る気がし、現実におけるよりも更に生々しい作戦の幻影に悩まされるように、本質的な芸術家というものは、彼の芸術に憑かれているのである。
この程度に、或る何物かの実在に魅せられていない人物は何物をも持たない無価値の人間である。そういう人物は空地に等しい。 (ヴァレリー『ドガに就て』 吉田健一訳)
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私は「不幸にも」こういった芸術家ではないので、死ぬまで「二、三人の若い娘たち」に憑かれるほかない。
しばらく痛風で脚が痛くてテニス行くのをやめていたのだが、ようやくまた「二、三人の若い娘たち」とプレイできたよ。
でもちょっとオチンチンの具合が悪くなっちまったな、痛風治療薬として二種類飲むのだが、そのうちのひとつ、コルヒチン(colchicine)はユリ科のイヌサフラン(Colchicum autumnale)の種子や球根に含まれるアルカロイドで、精力増強剤でもあるせいだろうか?
当地のテニスコートではトリュフォー的美にはめったに出会えないが、ゴダール的美ならふんだんにある。 |
我、汝の裂け目がただ一筋の線にあらざるならば、死をもいとわじ。Rimula, dispeream, ni monogramma tua est.(テオドール・ド・ベーズ Théodore de Bèzeーーモンテーニュ『エッセイ』第3巻第5章より)
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生きつづける欲望を自己の内部に維持したいとねがう人、日常的なものよりももっと快い何物かへの信頼を内心に保ちつづけたいと思う人は、たえず街をさまようべきだ、なぜなら、大小の通は女神たちに満ちているからである。しかし女神たちはなかなか人を近よせない。あちこち、木々のあいだ、カフェの入り口に、一人のウェートレスが見張をしていて、まるで聖なる森のはずれに立つニンフのようだった、一方、その奥には、三人の若い娘たちが、自分たちの自転車を大きなアーチのように立てかけたそのかたわらにすわっていて、それによりかかっているさまは、まるで三人の不死の女神が、雲か天馬かにまたがって、神話の旅の長途をのりきろうとしているかのようであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
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