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2020年9月15日火曜日

ある感覚、ある匂、ある光

まず『失われた時を求めて』の最初の巻が上梓される前年のプルーストの、王女マルト・ビベスコへの手紙を拾ったのでそれを掲げる。

ある感覚、ある香り、ある光
私にとって即時の感覚を求めることほど無縁のものはありません。ましてや物質的実現や幸福の現前なとはいっそう無縁です。ある感覚、利害と関係なくても、ある香り、ある光は、その現前が私の力なかであまりにも過剰であったら、私を幸福にしてくれません。それらが別の感覚を呼びさます時、私が現在と過去の間に(過去のなかではありません、説明が不可能ですが)それらを味わう時、私を幸福にしてくれます。(マルト・ビベスコへの手紙、1912年4月24日)
Rien ne m'est plus étranger que de chercher dans la sensation immédiate, à plus forte raison dans la réalisation matérielle, la présence du bonheur. Une sensation, si désintéressée qu’elle soit, un parfum, une clarté, s’ils sont présents sont encore trop en mon pouvoir pour me rendre heureux. C'est quand ils m'en rappellent un autre, quand je les goûte entre le présent et le passé (et non pas dans le passé, impossible à expliquer ici) qu'ils me rendent heureux. (Proust,  À Marthe Bibesco)


そしてプルーストの小説のなかで私が最も好きな文のひとつを掲げる。蚊居肢子はにおいの人なのである。

戸口を吹きぬけるすきま風の匂
彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンス réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした je m'arrêtai avec extase à renifler l'odeur d'un vent coulis qui passait par la porte。「あなたはすきま風がお好きなようですね Je vois que vous aimez les courants d'air」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)



ある感覚、ある匂いなどが別の感覚を呼びさます時、私が現在と過去の間にを味わう時、私を幸福にしてくれるーーこれが無意志的記憶の回帰が全芸術の基盤というプルーストである。これがわからない人とはオトモダチにはけっしてなれない。

ところで究極の「過去のある感覚、ある匂い」は何だろうか?


幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。
菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。……

菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。……

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)


究極のあの感覚、あの匂いは、母胎内の感覚や母胎内の匂いにきまっている。

ところでプルーストのマドレーヌとは実はmoulé(ムール貝 moule)のことであるのをご存じだろうか?

溝の入った帆立貝 coquille de Saint-Jacques の貝殻 valve のなかに鋳込まれたmoulé かにみえるプチット・マドレーヌPetites Madeleines (「スワン家のほう」)


ほかにもあの小説には「つぼ vase」という語が頻出するが、この語はマドレーヌとともにあの小説のマナ語である。閉ざされた壺が最後のほうで開くのである。

手元の井上究一郎訳ではいくら訳語にばらつきがあるが、たとえば最初の巻「スワン家」では「封じられたつぼ les vases clos 」とあり、最後の巻「見出された時」では「密封した千の瓶 mille vases clos」「一筋の日の光は、匂と音と時刻、変化する気分と気候、そのようなものに満たされた瓶 une heure est un vase rempli de parfum, de sons, de moments, d'humeurs variées, de climats」等々、そして、アルベルチーヌが「割ってもらいに行くために pour que j'aille me faire casser le ……」と口がすべってうっかり言ってしまった「囚われの女」の有名な箇所はもちろん「壺を割ってもらうme faire casser le pot」である。さらに「ソドムとゴモラ」の「心の間歇 Les intermittences du coeur」の章ーープルーストは『失われた時を求めて』の総題を当初「心の間歇」にしようとしていたーーにも現れる、「われわれの肉体の存在(…)肉体はわれわれの霊性が封じこまれている瓶のように思われている l'existence de notre corps, semblable pour nous à un vase où notre spiritualité serait enclose,」


さて話を戻そう、女性はこの点でとっても有利な筈なのにーーつまり自分の股の間のマドレーヌの匂や壺の薫香を嗅いだらいいのだからーー、幸福そうでない女性も多いのはどういったわけか? におい力があまりにも過剰なせいだろうか、《その現前が私の力なかであまりにも過剰であったら、私を幸福にしてくれません》。やはり戸口を吹きぬけるすきま風のような匂でないとダメなんだろうか。

とすればやはりトリュフォーである。森の中で嗅ぐ菌臭、エロスとタナトスが混淆した匂。

Les Mistons 


ああ、なんという幸せ! あの感覚、あの匂を《私が現在と過去の間にを味わう時、私を幸福にしてくれる》(マルト・ビベスコへの手紙)のである・・・蚊居肢子はこの感覚、この匂を幼い頃から常に《現在の瞬間であると同時に遠く過ぎさった瞬間でもある場、過去を現在に食いこませその両者のどちらに自分がいるのかを知ることに私をためらわせるほどの場で、感じとっていた je les éprouvais à la fois dans le moment actuel et dans un moment éloigné […] jusqu'à faire empiéter le passé sur le présent, à me faire hésiter à savoir dans lequel des deux je me trouvais ; 》(「見出された時」)


ああ、あれはやはりクールベの描いた「世界の起源 L'Origine du monde」の匂だったのだ!

西脇順三郎はじつによくわかっていた。


灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

ーー西脇順三郎「秋」

キノコやクリの匂を嗅いでいれば、ヒョウタンを磨かずにはいられなくなる。

さてくりかえせば、母胎内の記憶が太古の記憶であるに決まっているのである。フロイトは《エスがあったところに自我は到らなければならないWo Es war, soll Ich werden》(1933年)と言ったが、究極のエスの場はもちろん「子宮内生活」である。《私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただ エス Es のことを考えている。》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


私がアンダンテを好むのももちろん究極的にはそのせいである。


速度記号
意味
メトロノーム記号
Prest(プレスト)
非常に速く
176~184
Vivace(ヴィヴァーチェ)
速く活発に
144~152
Allegro(アレグロ)
快速に
120~132
Alleggretto(アレグレット)
やや快速に
104~112
Moderato(モデラート)
中くらいの速さで
88~96
Andantino(アンダンティーノ)
やや速く
72~82
Andante(アンダンテ)
歩く位の速さで
66~70
Adagio(アダージョ)
ゆるやかに
56~58
Largo(ラルゴ)
幅広くゆったりと
52~54
Lent(レント)
のろくゆっくりと
44~46
Grave(グラーヴェ)
重くゆっくりと
40~42



胎内の記憶
胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。
触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口―身体―指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。

聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。
視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)


ところで蚊居肢子は、若いころは愛さなかったわけではないが、ベルトルッチ風の匂いの嗅ぎ方では過剰すぎると感じるキョウコノゴロなのである。


Novecento



みなさんもほんとうは股の間から吹きぬけるすきま風のように漂ってくる匂を嗅いでこそはじめて陶酔するのではないだろうか・・・「女たちを愛した男 L'Homme qui aimait les femmes」の作法を人は学ばねばならない。長く女を愛するにはこれしかない。


L'Homme qui aimait les femmes