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2020年9月22日火曜日

器官なき身体の原像

私はドゥルーズ については、ニーチェ、フロイト、プルーストに関係があるところだけ摘み読みをしている程度であまり知らないのだが、前回、ドゥルーズのクモ=器官なき身体を引用したところで、『意味の論理学』をいくらか眺めてみた。

と、こんな文に行き当たってなんだか考え込んでしまった。

原ナルシシズムの自我は、器官なき身体のなかに宿っている
原ナルシシズムの時期としての自我は、初期には深淵のなかに宿っている、球体自体のなかに、器官なき身体のなかに。Le moi, comme terme du « narcissisme primaire », gît d'abord en profondeur, dans la boule elle-même ou le corps sans organes.(ドゥルーズ 『意味の論理学』「第二十九セリー」1969年)


球体 boule ってなんだろ?・・・・

少し前、ーーでは名高い「器官なき身体 corps sans organes」は「異者としての身体 corps étranger」なのか? ーーという問いを発したところだが・・・


胎児は子宮のなかで異者としての身体である
子供はもともと母、母の身体に生きていた l'enfant originellement habite la mère …avec le corps de la mère 子供は、母の身体に関して、異者としての身体、寄生体、子宮のなかの、羊膜によって覆われた身体である。il est,  par rapport au corps de la mère, corps étranger, parasite, corps incrusté par les racines villeuses  de son chorion dans [] l'utérus(Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


蚊居肢散人は、子宮ときくと俄然興味が湧いてくる原理主義者なのである・・・

子宮内生活は原ナルシシズムの原像である
子宮内生活は原ナルシシズムの原像である。la vie intra-utérine serait le prototype du narcissisme primaire (Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)
後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。原ナルシシズムは、自我の形成以前の発達段階の状態を示し、母胎内生活という原像、子宮のなかで全的保護の状態を示す。

Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. Mit »primärem Narzissmus« wird nun ein vor der Bildung des Ichs gelegener Zustand sder Entwicklung bezeichnet, dessen Urbild das intrauterine Leben, die totale Geborgenheit im Mutterleib, ist. (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)

※フロイト自身の文は、「原ナルシシズムの原像」を参照されたし。

究極の原ナルシシズムとはラカン語彙では原享楽=死のことである。《ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


参照


以前にもアルトーの絵をじっくり眺めたことがあるのだが、とってもニオイがするのである・・・




私、アントナン・アルトー、1896年9月4日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、9カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが大文字の母は私を捉えようと望んでいたのです。

moi Mr Antonin Artaud né le 4 septembre 1896 à Marseille, 4, rue du Jardin des Plantes, d'un utérus où je n'avais que faire et dont je n'ai jamais rien eu à faire même avant, parce que ce n'est pas une façon de naître, que d'être copulé et masturbé pendant 9 mois par la membrane, la membrane brillante qui dévore sans dents comme disent les UPANISHADS, et je sais que j'étais né autrement, de mes œuvres et non d'une mère, mais la MÈRE a voulu me prendre (アルトー『タマウラマTarahumaras』)

ーー《大文字の母、その基底にあるのは「原リアルの名」「母の欲望」である。それは「原穴の名」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou》(コレット・ソレール Colette Soler, Humanisation ? , 2014)






女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.

それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体もなく、性もない処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。

ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(アルトー『存在の新たなる啓示』)

女性のみなさん、アルトーが怒っています。蚊居肢子だって怒っています。死の力をもった真の女に回帰しなければなりません。

世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
Le monde appartient aux femmes.
  C'est-à-dire à la mort.
  
ーーPhilippe Sollers, Femmes, 1983


真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)





そもそもの原初のlogos はどの地域からどのようにして出てきたものなのか。それはインドの原始ヒンズー教(タントラ教)の女神 Kali Ma の「創造の言葉」のOm(オーム)から始まったのである。Kali Maが「創造の言葉」のOmを唱えることによって万物を創造したのである。しかし、Kali Maは自ら創造した万物を貪り食う、恐ろしい破壊の女神でもあった。それが「大いなる破壊の Om」のOmegaである。

Kali Maが創ったサンスクリットのアルファベットは、創造の文字Alpha (A)で始まり、破壊の文字Omega(Ω)で終わる. Omegaは原始ヒンズー教(タントラ教)の馬蹄形の女陰の門のΩである。もちろん、Kali Maは破壊の死のOmegaで終りにしたのではない。「生→死→再生」という永遠に生き続ける循環を宇宙原理、自然原理、女性原理と定めたのである。「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」( 松田義幸・江藤裕之、2007年、pdf