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2020年10月20日火曜日

崇高の復活序説

 崇高と享楽」から引き続くが、まずカント版とラカン 版を並べてみよう。




カントは、美しいものは対象の形態[Gestalt] あるいは形式[Form]にかかわり、崇高なものは非形式[formlos]あるいは非格好[ungestalt]にかかわると言っている(判断力批判27節)。ここでの問いは、崇高の表象あるいはモノすなわち穴の境界表象S(Ⱥ) を具体的に考えことである。カント曰くの海やら山やらが崇高だという話は当面無視し、崇高Sublimeにおける「潜在的なもの」の表象という側面に注目する。フロイト的にいえば、エスの境界表象について思いを馳せることにする。





エスの境界表象S(Ⱥである不気味なものの代表は、オメコである。


あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果…an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy; (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1999)


誤解のないように確認しておこう。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 〔・・・〕不気味なものは秘密の親密なものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。daß Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist, (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



さて以上から結論されるのは、究極の崇高なもの、少なくもその代表的なものはオメコだということである。私の少年時代は明らかにそうだった。齢を重ねるうちにオメコの崇高さは劣化してしまったということはあるにせよ。


インターネットでのオメコ画像の氾濫というのもオメコの崇高さを著しく貶めた。ひょとして21世紀の男女関係の不幸の根はここにあるのではなかろうか。なにはともあれこの時代、人はみなオメコの崇高さを復活させるにはどうすべきかを真摯に思考せねばならない。



われら糞と尿のさなかより生まれ出づ inter faeces et urinam nascimur(アウグスティヌス『告白』)

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)



ゴダール、映画史