2020年10月31日土曜日

ファルス原理と女性原理


前回記した内容の補足として記すが、何よりもまず、ラカンはセミネールⅥ(1959年4月8日)で、《大他者の大他者はない [Il n'y a pas d'Autre de l'Autre]》と言ったことにより大転回がある(一年前には、ラカンの思考において大他者は厳然とあった)。この意味は、《父の名を終焉させた[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. ]〔・・・〕「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」〔・・・〕、大他者は仮象に過ぎない[l'Autre n'est qu'un semblant]ということである。》(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)


大他者が仮象ならもちろんファルスも仮象に過ぎない。したがってファルスの底部にいた女が前面に現れる。これゆえ、エリック・ロラン(ミレール派ナンバーツー)はこう言う。


原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった。il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロランÉric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


これが、「ラカン評論家の誤謬」で示したミレール の言明の別の言い方である。


もともとファルスとは、身体の享楽=女性の享楽を飼い馴らす機能があると見なされていた。


ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)


だがファルスなど仮象に過ぎないとなれば、底部の女が原理になるのは必然である。実際、学園紛争を契機に父の失墜があり、世界は徐々に女たちのものになりつつあるのではないだろうか。




この形は、少し前示した次の図と論理的には同一である。






ところでエリック・ロランの言っていることは事実上、ラカンの若い友人だったソレルスが小説のなかで既に1983年に言っている。


世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …


Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(ソレルス『女たち』鈴木創士訳、邦訳1993年 原著1983)


この文はソレルスのパートナー、クリスティヴァの次の文とともに読むことができる(彼女は晩年のラカンのセミネールの熱心な参加者だった)。


しかし言語自体が、我々の究極的かつ別れられないフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980


言語とはもちろん、父の名である(仮象としての)。


言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


結局、ラカンの大他者は存在しないとは、言語は存在しない、ファルスは存在しない(仮象に過ぎない)ということである。


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977 )

象徴界は言語である Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

言語は存在しない le langage, ça n'existe pas (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)


ソレルスやエリック・ロランと同様なことはジジェクも言っている、《男はファルスを持った女である[man is woman with phallus]》と。


標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。[she lacks something (Phallus) with regard to man as a complete human being]


だが異なった読み方によれば、不在は現前に先立つ。すなわち、男はファルスを持った女である[man is woman with phallus]。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を穴埋めする詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。


《 我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)


ここから次のようにどうして言えないわけがあろう。すなわち究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「斜線を引かれた主体」の空虚)が女性性である、と。[subjectivity as such (in the precise Lacanian sense of $, of the void of the "barred subject") is feminine](ジジェク『『為すところを知らざればなり』第二版序文、2008年)


男はファルスの詐欺師なのである。


「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」(テレヴィジョン  1973)とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちはまったく狂っていない elles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。


他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008) 



これが現在のラカン派の論理である。この視点が何の役に立つのか。シンプルに男がエライのか、女のほうがエライのかではない。男女とも言語を使用して生きているのだから(言語秩序とはファルス秩序である)。


重要なのは何よりもまず、かつてのように言語からリアルをみるのかーーラカンの性別化の式に伴う「男性の論理/女性の論理」はこの視点であるーー、それとも身体的なリアルに対する防衛として言語をみるのかーーアンコール以後の後期ラカンはこの視点であるーーである。


これは個人だけの話ではない。たとえば日本という共同体であるなら、社会制度の裂け目に身体的なリアル=トラウマが現れるのか、それともトラウマに対する防衛として社会制度があるのか、である。私はほとんど常に後者の視点で見ている。世界一の少子高齢化社会とそのさけがたい帰結としての巨額の財政赤字に対する防衛(抑圧)、この詐欺的行政運営がいつまで続くのかと。ひょっとして戦争トラウマに対する防衛でさえいまだ残存しているのでは、と。たとえば一般庶民だけでなく知識人でさえ「見たくないものは見ない習性」の記憶は、戦争トラウマの一つに相違ない。







余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり(永井荷風「断腸亭日乗」1937年8月24日) 

知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)






われわれは日本の政府債務をGDP比や絶対額で毎日のように目にして驚いているのだが、これらは日本人にとって何の意味も持たないのか、それとも数字が発表されるたびに、みな大急ぎで目を逸らしてしまうのだろうか。

Tous ces chiffres exprimés en pourcentages de PIB ou en milliers de milliards - dont on nous abreuve quotidiennement - ont-ils un sens, ou bien doit-on tourner la page dès qu’ils réapparaissent ? (トム・ピケティーーJapon : richesse privée, dettes publiques Par Thomas Piketty avril 2011)