2020年10月30日金曜日

ラカン評論家の誤謬について

質問をもらっているがーー斎藤環やら佐々木中やらの名前を出してのものだけど、君の引用している内容を眺める限り、二人ともどっこいどっこいであり、彼らのラカンは後期ラカン観点からは「完全なる」誤謬(ごく最近強調され始めたことであり止む得ないとはいえ)。

象徴界(ファルス秩序)の裂け目に女性の享楽が現れるというラカンの論理は、1973年4月までであり、その後転回がある。

◼️性別化の式のデフレ

性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。


Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. 


⋯⋯結局、)性別化は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」のちに介入された「二次的構築物」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。


…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)


ーー《私は、現実界は法のないものに違いないと信じている。〔・・・〕真の現実界は法の不在を意味する 。現実界は秩序を持たない。je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi […] Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre. 》(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


本来の享楽は現実界であり(後引用)、したがって佐々木中くんのこういった発言はとてもバカっぽくみえる。




たぶん剰余享楽と享楽とを混淆させてしまっているのだろうが(参照)。




斎藤環はもはやラカン派からおりているようにみえるのであまり文句をいうつもりはないが、「念のため」言っておけば、無知のままエラそうなことを言い続けるアタルちゃんのツイートは笑いながら眺めるべきである。



◼️女性の享楽は享楽自体(リアルな享楽)

確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



………………


以下、ジャック=アラン・ミレールの言っていることを裏付けるラカン自身の言葉をいくらか引用しよう。


◼️ひとりの女は他の身体の享楽である。

穴を為すものとしての「他の身体の享楽」jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou (ラカン、S22、17 Décembre 1974)

ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)


ーー「他の」とは、「言語外の」という意味であり、他の身体とはリアルな身体(リビドーの身体)のこと。前期ラカンには「イマジネールな身体」という思考がありそれと区別する意味合いもある。



上に穴とあるが何か?


◼️穴とは固着による穴(トラウマ)

ラカンが導入した身体は自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]である。(…)この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着[fixation de la libido]あるいは欲動の固着[fixation de la pulsion.]である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matérie]、固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)



「ひとりの女は他の身体の享楽」に戻ろう。この他の身体の享楽とは原症状としてのサントームのこと。


◼️ひとりの女は、固着を通したリアルな身体の自動反復=本来の享楽

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=固着Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)


「他の身体」とは、別名「異者としての身体」(異物 Fremdkörper)と呼ぶ。


◼️ひとりの女は異者身体による不気味な内的反復強迫

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせる。

als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



◼️上に記したことは、すべて原抑圧(固着)による「リアルな欲動=無意識のエスの反復強迫」のことであり、これが本来の享楽。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。この穴は原抑圧との関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. […] La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)




◼️反復強迫とは死の欲動のこと。

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)





以上は解釈の相違というレベルの話ではけっしてない。だが現在に至るまでーー私の知りうる限りでだがーーラカンの現実界や享楽(女性の享楽)に触れている日本の「評論家」は、よくてもアンコールまでの現実界(享楽)であり、後期ラカンあるいはフロイト観点からは全滅。➡︎ 「後期ラカンの現実界の定義(簡潔版)