ボクは単純なファンだったからな、とくに日本を出る直前はしばしば彼のことを考えていた。
音楽は、もっと開かれたものであるべきだろう、と思う。恋愛や性をうたうことは、それがほんとうにつきつめたものであれば、その反社会性の故に、反ってそこから、開かれた社会性が獲られる。私が西洋音楽から学ぶのは、そうした社会性というものであり、〔・・・〕それはまた確固とした個というものを前提として成り立つものである。(武満徹「少しでも遠くへ」『遠い呼び声の彼方へ』1992年) |
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でも前回のようなことを引用して何が言いたいわけでもないよ、そもそもいまは武満をめったに聴かないし。
谷川俊太郎とはとっても仲が良かったんだよ。
「今日着てきたコートも武満のものですよ。体形がぴったりだから」(谷川俊太郎、2014年12月) |
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谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年 |
俊太郎)僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。 |
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武満が浅香さんをなぐったのを、私はただ一度だけ目の前で見た ことがある。彼が音楽をつけたある芝居を、浅香さんが私たち夫婦 に同調して批判したのが理由だった。そのとき私はおろおろするば かりだったが、いまはそれが愛情からだったということがよく分か る、妻への、音楽への、そして生きることへの。 |
(谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(アンソロジー、2018年) |
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おれがきみと自殺とを意識的に結んで考え始めたのは、お互いに三十代になってのことだ。それもとくにおれはおれで仕事を始めて、年中、小説を書くか本を読むかしているきみと遊ぶことが間遠になった頃、直接それを突きつけてくる人がいたんだ。映画関係の人間が集まる、といっても実際に映画の制作に関係して生産的な人間はというと、数えるほどのね、そういうバーに行くことがあると、これは確実に映画音楽を作曲している人として、篁さんに会うことがあった。あの人はバーの入口からまっすぐおれのところに進んで来てさ。黒い鳥がさっと舞い下りるように脇に坐って、きみのことを質ねるんだ。 近頃、古義人さんに会いましたか? あの人は、大丈夫でしょうか? とさ。とくに声も低くしないで… それは古義人がちゃんと仕事をやっているかとか、アカリ君がどうか、というたぐいの話じゃないよ。じつに露骨にね、きみが自殺しないだろうか、ということなのさ。会うたびにただそのことだけ聞かれるんだから、誤解のしようもない。(大江健三郎『取り替え子』p 91) |
篁さんは小柄な身体でなくても大きすぎる頭の持主だが、勢いも均斉もあきらかな立居振舞いの人でもあった。それがピンドットのワイシャツ生地のパジャマに、放射線治療で髪の抜け落ちた頭は毛糸の帽子にくるんで、古義人を動きのない深い眼で把えていた、古義人は、自分から眼を伏せた。(大江健三郎『取り替え子』p183) |
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