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2020年10月15日木曜日

フロイトにおける「離人症と異者」

 偶然にも本日付(2020年10月15日)の投稿で、さるエライ先生のこんな文を読んでしまった。


これはちょっとマズイんじゃないかな。フロイトのロマン・ロラン70歳誕生祝いの書信にてこんな判断をするのは。日本における解離研究の第一人者かもしれない人の記事で、シツレイだからリンクはしないでおくけど。

誕生祝いの書信をかりに軽く扱わない立場をとっても、前後を見るとほぼ次のようなことが書かれている。

疎外は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとって異者(異物)のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs. 


後者の事例において、われわれは離人症を語る。疎外と離人症は密接に関係している。In letzterem Fall spricht man von »Depersonalisation«; Entfremdungen und Depersonalisationen gehören innig zusammen. 〔・・・〕


離人症は「二重意識」、より正確には「スプリットパーソナリティ」と呼ぶべき驚くべき状態につながる。しかしこれに関するすべてはあまりに不明瞭でほとんど科学的に解明されていないため、私はあなたの前では議論しないよう自粛しなければならない。Von der Depersonalisation führt der Weg zu der höchst merkwürdigen » double conscience«, die man richtiger »Persönlichkeitsspaltung« benennt. Das ist alles noch so dunkel, so wenig wissenschaftlich bezwungen, daß ich mir verbieten muß, es vor Ihnen weiter zu erörtern.


私の目的にとっては、疎外の二つの一般的特性に戻れば十分である。何よりもまず、この二つの特性は、何ものかを自我から遠ざける・否認することを目指している。Es genügt meiner Absicht, wenn ich auf zwei allgemeine Charaktere der Entfremdungsphänomene zurückkomme. Der erste ist, sie dienen alle der Abwehr, wollen etwas vom Ich fernhalten, verleugnen. (フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)



フロイト理論の核心概念のひとつ「異者 fremd」と「離人症  Depersonalisation」が関連付けられており、しかも「否認 verleugnen」という語まである。フロイトは排除と否認の語の使い分けが曖昧だが、この語を「排除 Verwerfung」ととったら、解離=排除の中井久夫の解釈とドンピシャだね➡︎ 「プルースト的精神医学における「排除された異者」」。


ラカンもフロイトのVerwerfungを forclusionと翻訳するときに「解離」の語を口に出している(それまでの仏語訳は、rejet だった)。



抑圧・排除・否認の最も基本的定義は次のものである。




ーー最初の抑圧をフロイトは1910年以降「後期抑圧」とも呼び、排除については1915年の抑圧論文で「原抑圧」と呼んだ。1926年以降は、両者を1894年の定義に戻って「防衛」とときに呼ぶようにもなるが、その後も抑圧という語は捨てておらず、原抑圧自体を抑圧と言うときも多いので、どちらのことを言っているのか文脈で判断するほかない。



われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。


die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


私はサリヴァンを知らないが、中井久夫によれば、この抑圧・原抑圧の両方を、サリヴァンは解離と呼んだそうだ。解離という邦訳は、いかめし響きがあるが、脱アソシエーション、脱連合とでも訳すべき語である。


臨床的全きシロウトの身でエラそうなことを言うつもりはないが、解離メカニズム自体は当初からフロイトにあるんじゃないだろうか。ジャネの解離が常に視野にあった筈だし(解離の重度軽度の問いはもちろんあるが)。


そもそも現在の精神医学のとってもエライ先生でもいまだフロイトの無意識は次の図の左側だと思い込んでいる人がほとんどで、事実上フロイトをほとんど読んでいないのが丸ワカリ。




だが右側の原抑圧の無意識は初めからある。この無意識こそ「排除された無意識」、「解離された無意識」なのであり、この無意識は、表現自体は曖昧なまま「抑圧」とされていただけで、ブロイアーと一緒に仕事をしていた1890年代からある。


そもそも当時のフロイトは「解離」という語を連発していた(参照)。


何よりもまず私は指摘したい。われわれは意識内容の解離-分裂の想定していることを。ヒステリー的現象を説明するのに必要不可欠ななものとして。


die Bemerkung vorausschicken, dass wir die Annahme einer Dissoziation – Spaltung des Bewusstseinsinhaltes – für unentbehrlich zur Erklärung hysterischer Phänomene erachten.“(フロイト書簡 Brief an Josef Breuer und Notiz III, 1892)


そして最晩年には次のように書く。


われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程(「自我分裂 Die Ichspaltung 」過程)の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能 synthetische Funktion des Ichs は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。(フロイト『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang 』草稿、死後出版1940年)


自我分裂 Ichspaltung という表現は、初期フロイトの「解離-分裂 Dissoziation – Spaltung」を生かせば、「自我解離」と呼んでもよい筈であり、自我統合どころかむしろ人はみな何らかの仕方で解離しながら生きている(これは中井久夫も記憶の解離がなければ人格崩壊するという意味のことをどこかで言っている)。


今見出したので正確に引用しておこう。


われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007)


しかも現在の主流ラカン派(フロイト大義派 Ecole de la Cause freudienne

)の核心は、原抑圧なのであり、ようするに排除された無意識、解離された無意識である。


後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(…)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある(…)。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)



この原抑圧の無意識を最晩年のフロイトは原無意識と呼んだのである。


翻訳の失敗、これが臨床的に「(原)抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ  06.12, 1896)

抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識 としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1939年)


このエスのなかに置き残された身体的なものが、異物であり、時期によって種々の表現があるが、以下の語彙群は基本的にすべて等価である。