前前々回、 「悦の泉 Born der Lust」「永遠の泉 Brunnen der Ewigkeit」「永遠の悦 ewige Lust」を列挙したが、そこでは長くなるので割愛した「生成の永遠の悦 die ewige Lust des Werdens」をここに引用する。
生成の永遠の悦[die ewige Lust des Werdens] |
…わたしが、まさにこの見解によって、どれほど深く「悲劇的」という概念を考え、どれほど深く悲劇の心理学の本質について最終的な認識に達したか、このことを わたしは、つい先頃も、『偶像のたそがれ』の中ではっきり述べておいた。 |
「生のもっとも異様な、そして苛酷な諸問題の中にあってさえなおその生に対して「然り」ということ、生において実現しうべき最高のありかたを犠牲に供しながら、それでもおのれの無尽蔵性を喜びとする、生への意志[der Wille zum Leben]ーーこれをわたしはディオニュソス的と呼んだのであり、これをわたしは、悲劇的詩人の心理を理解するための橋と解したのである。詩人が悲劇を書くのは恐怖や同情から解放されんためではない、危険な興奮から激烈な爆発によっておのれを浄化するためーーそうアリストテレスは誤解したがーーではない。そうではなくて、恐怖や同情を避けずに乗り越えて、生成の永遠の悦[die ewige Lust des Werdens]そのものになることだ、破壊の悦[die Lust am Vernichten]をも抱含しているあの悦に……」 |
Das Jasagen zum Leben selbst noch in seinen fremdesten und härtesten Problemen; der Wille zum Leben im Opfer seiner höchsten Typen der eignen Unerschöpflichkeit frohwerdend – das nannte ich dionysisch, das verstand ich als Brücke zur Psychologie des tragischen Dichters. Nicht um von Schrecken und Mitleiden loszukommen, nicht um sich von einem gefährlichen Affekt durch eine vehemente Entladung zu reinigen so missverstand es Aristoteles: sondern um, über Schrecken und Mitleiden hinaus, die ewige Lust des Werdens selbst Zusein, jene Lust, die auch noch die Lust am Vernichten in sich schliesst.. .« (「私が古人に負うところのもの」第5節『偶像の黄昏』1888年) |
この意味でわたしは、わたし自身を最初の悲劇的哲学者と解する権利をもっているのだ ーーということはすなわち、厭世哲学者の極端な対極者という意味である。わたし以前には、このようにディオニュソス的パトスが哲学的パトスに転換された例はない。悲劇的知恵が欠けていたのだーーわたしはこの転換の徴候がどこかにないかと思って、偉大なギリシアの哲学者たちのなかに、ソクラテスより二世紀前までさかのぼって探してみたが、むだだった。 |
ただ一つ、その徴候がないと言い切れない気持ちが残ったのは、ヘラクレイトスにおいてである。おしなべて、わたしはこの人の近くにいると、ほかのどこにいるときよりも、寒さを感ずるととがなく、快い気分になる。かれにおける、流転と破壊との肯定[Die Bejahung des Vergehens und Vernichtens]は、ディオニュソス的哲学における決定的要素である。また対立と戦闘の承認、「存在 Sein」の概念をすら拒否して憚らない生成の思想ーーそこに、わたしはどうしても、今まで考えられたもののうちでもっともわたしに親近関係をもつものを認めざるをえない。 |
「永遠回帰」原理、すなわち、万物の、無条件で無限の反復循環、ーーこのツァラトゥストラの教えは、結局はすでにヘラクレイトスによって説かれていたと言っていいのかもしれない。[Die Lehre von der »ewigen Wiederkunft«, das heisst vom unbedingten und unendlich wiederholten Kreislauf aller Dinge – diese Lehre Zarathustra's könnte zuletzt auch schon von Heraklit gelehrt worden sein. ] |
少なくとも、ほとんどすべての基本的観念をヘラクレイトスから受けついだストア学派には、その痕跡が見られるーー(ニーチェ『この人を見よ』「悲劇の誕生」1888年) |
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「純粋な者たち」よ、神の仮面 が、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロス greulicher Ringelwurm)がいる。[Eines Gottes Larve hängtet ihr um vor euch selber, ihr "Reinen": in eines Gottes Larve verkroch sich euer greulicher Ringelwurm.] (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」1884年) |
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悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。―― [- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年) |