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2020年10月23日金曜日

自閉症的享楽について

 以下、現在日本で流通している「自閉症」概念とは等価ではないことに注意して読まれたし。

ドイツ語の自閉症 Autismusは、ギリシャ語のautos-(ατός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語で、フロイトと一緒に仕事をしたスイスの精神科医オイゲン・ブロイラーが「統合失調症患者が他人とコミュニケーションができない症状」を記述するために、1910年に用いた。アスペルガーによる「自閉症」概念の使用もブロイラーの記述をもとにしているという。いずれにせよ、autismとは、本来は「自己状態」、あるいは自己身体状態という意味をもつ。


ところでブロイラーは、自閉症はフロイトの自体性愛とほとんど等価だと言っている。


自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである [Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nenn]。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズム[Libido und Erotismus] は、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。 (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


そしてラカン の享楽とはこの自体性愛のことであり、フロイトの欲動そのものが自体性愛である。


ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance]。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛[auto-érotisme] と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質[ caractère auto-érotique] を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体[ pulsion elle-même]に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[ la pulsion est auto-érotique]。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


ところで、ラカン はセミネール10にて、去勢概念を扇のカナメにして、自己身体、原ナルシシズム、自体性愛、自閉症的享楽を等置している。



上の三つは享楽という語を付け加えて言うことができる。

たとえばジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。


自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001) 


この伝で言うと次のようになる。



今、上の四つだけでなく、下にも三つ付け加えたがすべて同じ意味である。


一者の享楽

後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「大他者」ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。


dernier enseignement de Lacan est hanté par le problème de l'autisme. L'autisme veut dire que, dans ce dernier enseignement, c'est l'Un qui domine et non pas l'Autre.  […] à la jouissance de l'Un, au secret libidinal de l'Un, (J.-A, Miller, LE LIEU ET LE LIEN,  06/06, 2001)


サントームの享楽

サントームの享楽 la jouissance du sinthome    (Jean-Claude Maleval,  Discontinuité - Continuité, 2018)

サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

サントームの身体は、常にに自閉症的享楽に回帰する [Le corps du sinthome […]renvoie toujours à une jouissance autiste](ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)


自己身体の享楽=異者身体の享楽

自己身体の享楽はあなたの身体を「異者としての身体 corps étranger」にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


自己身体の享楽といっても実際は、かつて自己身体とみなしていたが「分離されてしまった=去勢されてしまった」自己身体を取り戻そうとする運動であり、これが、反復強迫をもたらすフロイトの異物(異者身体Fremdkörper)の核心的意味である。セミネール10で去勢概念がカナメになっているのはこの理由である。最晩年のラカンが《享楽は去勢である la jouissance est la castration。castration》(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)というのもこの文脈のなかにある。

ジャック=アラン・ミレールは次のように注釈している。


享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)



さてラカン派の自閉症についてもう少し確認しておこう。

自閉症は主体の故郷の地位にある。そして「主体」という語は括弧で囲まれなければならない、疑いもなく「話す存在parlêtre」という語の場に道を譲るために。 l'autisme était le statut natif du sujet, si je puis dire. Et le mot de « sujet », ici, doit porter des guillemets, et céder sans doute la place au terme de parlêtre (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)


「話す存在parlêtre」とは、従来の自由連想等で対応可能な力動的無意識ではなく、原無意識の存在ということである。





ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「話す存在 parlêtre」に置き換える [remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre]。…


話す存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 [analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。]…


言存在のサントーム [le sinthome d'un parlêtre ]は、《身体の出来事 [un événement de corps]》(AE569)・享楽の出現 [une émergence de jouissance]である 。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 [le symptôme d'un autre corps]》、《ひとりの女 [une femme]》でありうる。(J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant、2014)




「身体の出来事」とあるのは、フロイトの固着のことである。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


さらにミレール文の「他の身体の症状」、「ひとりの女」も、フロイトの異物(異者としての身体)のことである。


ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



さてここでミレール2001の《自閉症は「一者」l'Un が支配すること。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。》に戻ろう。ミレールは、10年後、これを「1のシニフィアン le signifiant Un」、「S2なきS1[S1 sans S2]」と言うようになるが、同じことである。


S2なきS1[S1 sans S2]を通した身体の自動享楽

反復的享楽、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準にある。この反復的享楽は「1のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部にある。それはS2なきS1[S1 sans S2]を通した身体の自動享楽に他ならない。


La jouissance répétitive, la jouissance qu'on dit de l'addiction - et précisément, ce que Lacan appelle le sinthome est au niveau de l'addiction -, cette jouissance répétitive n'a de rapport qu'avec le signifiant Un, avec le S1. Ça veut dire qu'elle n'a pas de rapport avec le S2, qui représente le savoir. Cette jouissance répétitive est hors-savoir, elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)


そしてミレールは次の週のセミネールでこの「1のシニフィアン le signifiant Un」をフロイトの固着Fixierungだと言っている。


1のシニフィアン[ le signifiant Un]= S2なきS1[S1 sans S2]=固着

現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、単独的な唯一のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「1のシニフィアン[le signifiant Un] 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。


Cette position du réel, je suis arrivé à la coincer de deux coordonnées cueillies dans le dernier enseignement de Lacan : le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2 et prenant sens à partir de lui, donc le signifiant Un –, et puis, de ce terme où Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. 

私は考えている、この「1と享楽の結びつき[connexion du Un et de la jouissance]」が分析経験の基盤であると。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。固着点[point de fixation]が意味するのは、享楽の一者がある[il y a un Un de jouissance]ということであり、それは常に同じ場に回帰し、この理由でわれわれは固着点を現実界とみなす。


je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. 。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


こうして先ほど引用したフロイト抑圧論文の記述とジカに繋がってくる。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)


固着と異物、少なくも反復強迫のメカニズムは、この二語でよいというぐらい、私にとってはフロイトラカン用語の多くのものが繋がったミレールの決定的注釈だった(もっとも彼のセミネールを遡っていくらか覗くと、1990年代後半にすでに後期ラカン の鍵としてフロイトの固着に触れていることに後に気づいたが)。


もういくら補おう。享楽の残滓と固着点である。


不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 [reste de jouissance]」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す [La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante]。固着とは、享楽の経済において、ファルス化されないものである。[ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.  ](J.-A. Miller, Orientation lacanienne III,6 - 5/05/2004)


固着点はフロイトにおいて、たとえば次の形で出現する。


固着点を通した「抑圧されたものの回帰」

「抑圧」は三つの段階に分けられる。


①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている「固着」である。(…)この欲動の固着Fixierungen der Triebe は、以後に継起する病いの基盤を構成する。


②「正式の抑圧 eigentliche Verdrängung」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ後期 Nachdrängenの抑圧ある。(… )原初に抑圧された欲動 primär verdrängten Triebe がこの二段階目の抑圧に貢献する。


③第三段階は、病理現象として最も重要であり、抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung、侵入突破 Durchbruchs、抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten である。この侵入Durchbruchとは「固着点 Stelle der Fixierung」から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行 Regression der Libidoentwicklungを意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年、摘要)


ミレールのいう享楽の残滓の「残滓」は、フロイトにおいてたとえば次の形で出現する。


リビドー固着の残滓

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


こうしてラカン の次の発言を十全な理解のもとに読むことができる。


固着の残滓=対象a=異者としての身体=不気味なもの

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


そしてふたたびフロイト。


同一のものの回帰という不気味な内的反復強迫

いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。〔・・・〕Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist  […]


心的無意識のうちには、欲動蠢動Triebregungenから生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫をinneren Wiederholungszwang思い起こさせるものである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


不変の個性刻印による「同一のものの永遠回帰」

同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫Wiederholungszwang〔・・・〕あるいは運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


トラウマへの固着という不変の個性刻印による反復強迫

幼児期に起こるトラウマは、自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。〔・・・〕この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」〔・・・〕これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


固着を通した無意識のエスの反復強迫

欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。


Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


反復強迫という死の欲動

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


ラカン用語も含めてまだまだいくらでも上げることができがこのあたりにしておこう。肝腎なのは固着と残滓としての異者身体である。



固着によりエスのなかに置き残された異物、これが原無意識である。

原無意識

抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識 としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』1939年)

ーー1926年以降のフロイトはとりわけ、抑圧という語を原抑圧、つまり排除もしくは固着の意味で使っていることが多いので注意しなければならない。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)



上に引用した『モーセ』の抑圧も次の『モーセ』の抑圧もどちらも原抑圧である。



個人の初期の記憶痕跡は、その個人のなかに保存されている。しかし独特な心理学的条件でである。〔・・・〕忘却されたものは消滅されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗備給 Gegenbesetzungenにより分離されているのである。〔・・・〕それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離されている。


Die Erinnerungsspur des früh Erlebten ist in ihm erhalten geblieben, nur in einem besonderen psychologischen Zustand. […] Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«, seine Erinnerungsspuren sind in aller Frische vorhanden, aber durch »Gegenbesetzungen« isoliert. […] Sie können sind unbewußt, dem Bewußtsein unzugänglich. Es kann auch sein, daß gewisse Anteile des Verdrängten sich dem Prozeß entzogen haben, der Erinnerung zugänglich bleiben, gelegentlich im Bewußtsein auftauchen, aber auch dann sind sie isoliert, wie Fremdkörper außer Zusammenhang mit dem anderen. (フロイト『モーセと一神教』1939年)