異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste, (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)
|
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
|
そこの「アナタ」も、この異者せいで反復強迫しているのが私にはよくわかる。尼僧ぶりっ子をしたってムダである。
過去はけっして死なない。それは過ぎ去ってさえいない。[The past is never dead. It's not even past ](フォークナー『尼僧への鎮魂歌』1951年)
|
ーー《恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される。[page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige. Mais l'oublié se rappelle dans les actes]》(Lacan, E262)
サンクチュアリのトウモロコシパックリでなかったのはサイワイである。
|
人は、忘れられたものや抑圧されたもの[Vergessenen und Verdrängten]を「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している[ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt]。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)
|
|
さてこの「アナタ」は、身近なあなたやボクだけでなく、私の場合、ニーチェだったり、プルースト だったり、安吾だったり、三島だったり、俊太郎だったりもする。とくに作家たちの文からマナ語を見出せば、これが瞭然とわかると「錯覚に閉じ籠りうる」場合がある。
この異者による永遠回帰は、何も作家や芸術家たちだけではない。個性をもった人間なら必ずといってよいほど固着の刻印を通した反復強迫をしている。もっともその徴を徹底的に回避しているガチガチのファルス人格の人もいないではないが、そういった人物はまた別の滑稽な味わいをもつものである(制止の反復強迫)。
|
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
|
享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
|
ーー蚊居肢ブログの永遠回帰ぶりに気づかないヤツはとってもおバカである・・・
ここで、フロイトから固着(ラカン派の享楽の固着)の記述の主要なものを列挙しておこう。
さてこのように、一者にも異者がいることに注意しなければならないが、基本的には次のように示せる。
象徴界と想像界は古典的によく知られている例なので敢えて示すまでもないかも知れないが、確認の意味で解説文を掲げておこう。
重要なことは、権力power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Social bond and authority, 1999)
|
三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性contextualityである。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。
これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年)
|
そして日本はイマジネールな二者関係的な国であることも、浅田や柄谷などによって指摘されてきた。
公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)
|
事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年)
|
日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 年『ヒューモアとしての唯物論』所収)
|
だがこういったことは、不幸にもフェミニストたちや社会学者、政治学者のほとんどには通じず、欧米思想をそのまま日本に輸入して適用するなどというとってもおバカな運動や研究がなされてきた。ああいった学者たちをみると「知識人みな殺し」を試みたポルポト気分になる。ところでムッシューポルポトは長期仏留学によりフーコーの精神的高弟であったことをご存知であろうか。フーコーを純化すればアレに行き着くのである・・・
ナンダッケナ、そうそう一神教国の思考がそのまま多神教国日本に適用できるはずはないのに。
|
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〔・・・〕明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)
|
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
|
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年『記憶の肖像』所収)
|
父権的な言語による統制が機能せず、母性的な曖昧模糊とした牢獄の国だからこそ、次のような現象がいたるところで生じるのである。
|
日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)
|
しかも日本の言語構造までが「汝と汝の関係」という二者関係的言語であることを少し前示した(参照)。
|
|