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2020年10月1日木曜日

愛の洗練された形式

 それはいくら何でもまずいよ、コメントしてくるな、と言わないけれど、少しは考えてからにしないとな。そもそも上質な文学を読むのは、そういった三文文学者や三文フェミ・三文思想家らが口に出すようなことを恥じる訓練をすることじゃないかね。


宮廷風恋愛とは何だろうか? それは、性関係に障害を置いているのは我々なのだという装いをすることによって、もともと不在の性関係を埋め合わせる非常に洗練された形式である。L'amour courtois, qu'est-ce que c'est ?  C'était cette espèce, cette façon tout à fait raffinée de suppléer à l'absence de rapport sexuel  en feignant que c'est nous qui y mettions obstacle.  (Lacan, S20, 20 Février 1973)


ーーこの「宮廷風恋愛」はジジェク がむかしから連発して面白おかしく注釈しており、ネット上にも落ちているはずだから興味があるならそれを参考に。


以下、ベース資料を「再掲」列挙しておくけど、ま、これは難しいんだろうから馬耳東風でもいいさ。


人はみなーー男も女もーー女という神を妄想する

問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。その理由で「女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (ラカン、S23、18 Novembre 1975)

女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


妄想という剰余享楽

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別をした。これは、穴としての享楽[la jouissance  comme trou]と、穴埋めとしての剰余享楽  [le plus-de-jouir comme bouchon] である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


女というものは存在しない=性関係はない

女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J.A. Miller「エル・ピロポ  El Piropo 」1979年)

女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas” Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)

「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。そして女の表象の排除とは、人が女の普遍的概念[concept universel de la femme]をもっていないということである。それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。この正当化されたレベルにおいて、主体において、女性の主体と性関係 le sujet de la femme et du rapport sexuel において、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。

したがって特に、「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちはまったく狂っていない elles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、…「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女の排除(女というものの排除 la forclusion de la femme)、これが「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の意味である。J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 


「人はみな妄想する」はジョークではない

父の名の失墜[Le déclin du Nom du Père]は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant] 」はジョークではない。これは狂気のカテゴリーを話す存在すべてに拡張していると翻訳できる[Cela renvoie à l'extension de la catégorie de la folie à tous les être parlants]。つまり人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しむ。(J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

病理的生産物と思われている妄想形成 Wahnbildung は、実際は、回復の試みHeilungsversuch・再構成Rekonstruktionである。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察(シュレーバー症例)』 1911年)

ラカンの精神病理論において、症状安定化のための三つの異なった理論が分節化されている。想像的同一化、妄想形成、補充(穴埋め suppléance)である。(Fabien Grasser, Stabilizations in psychosis , 1998)

人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる〔・・・〕


もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)


一般化排除の穴 =女性のシニフィアンの排除の穴

女性のシニフィアンの排除の穴 trou de la forclusion de La femme, (Catherine Bonningue, Un « roque » final, 2012)


…………


そもそも何でいまだに「アタシは女のことわかっているわ」という口ぶりで話すんだろ? 何度も皮肉ったけれど、それってもはや「病膏肓に入る」のレベルに見えるな。


ここで三島を引用するのはとてもシツレイかもしれないが、そうせざるをえないな。


あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教えてもらっている始末である。(三島由紀夫「女ぎらいの弁」)

一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。(三島由紀夫「女ぎらひの弁」)

男と女の一等厄介なちがいは、男にとっては精神と肉体がはっきり区別して意識されているのに、女にとっては精神と肉体がどこまで行ってもまざり合っていることである。女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いずれ肉体と不即不離の関係に立つ点で、男の精神とはっきりちがっている(三島由紀夫「不道徳教育講座」)



以下のヒステリーは悪い意味ではない。大他者を信じる神経症的主体のこと。


ヒステリー的主体において、他の女[Autre femme]は支配的な力を持っている。というのは性についての問いは、常に他の性[Autre sexe]についての問いだから。ここでは相互性は重要ではない。というのは他の性[Autre sexe]は両性にとって女性の性[sexe féminin]だから。他の性[Autre sexe]は、男にとっても女にとっても女性の性[sexe féminin]である。ゆえに次の事態がある。すなわちヒステリー的主体にとっての根源的な問いは、十全な強度で、常に女というものを通しての応答に至ることを期待している。(Jacques-Alain Miller, The Axiom of the Fantasm[L'Axiome du Fantasme])

ヒステリー的女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようと試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。これは、女性性の場にある名付けえないものを名付けるための方法である。彼女の女性性は、彼女にとって異者であるsa féminité lui est étrangère。(Florencia Farías , Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)