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2020年10月1日木曜日

雌蕊と胚珠

このところ25歳のベケットが書いた『プルースト』の英文を舐めるように読んでいるのだが、舐め読みだとなかなか前に進まない。PDF で百頁強しかないのだが、場合によっては一日一頁だけしか読めないなどということが生じる。多くの引用があるのだが、ジョイス自身のプルースト仏文からの英訳であり、いくつかははてどこにそんなことが書いてあったかと探りだし、しかもその前後を読みだすともうその日はそれでおしまいである。結局プルースト自体を読むほうが百倍以上の喜びである。一ヶ月ほど前、ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』を読み直したときは引用箇所が注記されてあるのですぐに探し当てたが、百倍以上の喜びのほうは変わりがなかった。

さて「花咲く乙女たちのかげ」のとてもお気に入りの箇所ーーこのブログでは今まで引用したことはないがーーを掲げる。


雌蕊と胚珠

彼女の個性、つまり漠とした魂、私には未知の意志である彼女の個性が、ぼんやりとさまよわせている彼女のまなざしの奥深くに、ひどく縮小されながらも完全な小映像として、宿っているのが見わけられると、すぐに、準備がととのった花粉への、雌蓋の神秘な応答のように、おなじように漠とした微小な胚珠が、私のなかにきざすのを感じるのであった。

dès que son individualité, âme vague, volonté inconnue de moi, se peignait en une petite image prodigieusement réduite, mais complète, au fond de son regard distrait, aussitôt, mystérieuse réplique des pollens tout préparés pour les pistils, je sentais saillir en moi l'embryon aussi vague, aussi minuscule, (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


男と女の関係とは結局こういうことではなかろうか、つまり雌蕊と胚珠の関係ではなかろうか?


女たちは胚珠を探し求め、「私は誰かに私のずっと奥にある めしべのようなものに触れてほしいわ」と町のなかを彷徨ったり、最近ではツイッターなどで囀っているのではないか。そしてお気に入りの男に出会えば、「子宮のおくから蜜のようなものが溢れだすの」という具合になり、すくなくとも若い男なら花咲く乙女のかげから発するヴァギナフェロモンに陶酔して勃然としているのではなかろうか?


コピュリンと呼ばれる女性のヴァギナフェロモンは、テストステロン(男性ホルモン)のレベルを上げて性欲を増大させる。(Bruce Fink, Lacan on Love: An Exploration of Lacan's Seminar VIII, Transference, 2017)


ああ、あの一人また一人とすれちがう女たちの何というめしべの香り高き匂い!



私たちはまた坂をくだっていった、すると、一人また一人とすれちがうのは、歩いたり、自転車に乗ったり、田舎の小さな車または馬車に乗って坂をのぼってくる娘たちーー晴天の花、ただし野の花とはちがっている、なぜなら、どの娘も、他の花にはない何物かを秘めていて、彼女がわれわれの心に生まれさせた欲望を、彼女と同種類の他の花でもって満足させるというわけには行かないからーーであって、牝牛を追ったり、荷車の上になかば寝そべったりしている農場の娘、または散歩している商店の娘、または両親と向かいあってランドー馬車の腰掛にすわっている上品な令嬢などであった。 (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」p31)



次の箇所が冒頭に引用した文節だが、手元の井上究一郎訳では雌蕊と胚珠が遠く離れており、原文ではmystérieuse réplique des pollens tout préparés pour les pistils, je sentais saillir en moi l'embryon aussi vagueという具合に接近していてこっちのほうがずっと受精まじかの印象を与えてくれるので、冒頭のように示した。


こちらの方向にやってくる女の子が、見えたなと思う間もあるかなしである、にもかかわらずーー人間の美は、事物のそれとはちがって、意識と意志とをもった、独自な生物の美である、という感覚をわれわれはもっているためにーー彼女の個性、つまり漠とした魂、私には未知の意志である彼女の個性が、ぼんやりとさまよわせている彼女のまなざしの奥深くに、ひどく縮小されながらも完全な小映像として、宿っているのが見わけられると、すぐに、準備がととのった花粉への、雌蓋の神秘な応答mystérieuse réplique des pollens tout préparés pour les pistilsのように、私は、その娘の思念に私という人間を意識させないでは彼女を通すまい、誰か他の男のところへ行こうとする彼女の望をさまたげないでは通すまい、彼女の夢想のなかに私がはいってそこに落ちつき、彼女の心をつかんでしまうまでは通すまいと思う欲望の、おなじように漠とした、微小な胚珠が、私のなかにきざすのを感じるのであったje sentais saillir en moi l'embryon aussi vague。しかしそのあいだに馬車は遠ざかり、美しい娘はもう私たちの背後に残され、彼女は私について、一個の人間を構成するなんの概念ももたないから、私を見たか見ないで過ぎた彼女の目は、すでに私を忘れさっていた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」井上究一郎訳、p32-33)


さて次の黒字強調したところが25歳のベケットが引用している箇所である。


私がその女の子をそんなに美しいと思ったのは、彼女をちらと見たにすぎなかったからであろうか? おそらくはそうだ。まず、女のそば近くに立ちどまることができないということ、またの日もう一度会えないというおそれ、それが突然その女に魅力をあたえるので、病気とか金がないとかで見物に行けないためにある土地が美しく見える、または、どうせ戦争でたたかって倒れるとわかっているとき、生きるために残された暗い日々が美しく見える、それとおなじなのであった。だから、習慣というものがなかったら、たえず死におびやかされているものにとってーーつまりすべての人間にとってーー人生はどんなに快いものであるかわからない。De sorte que, s'il n'y avait pas l'habitude, la vie devrait paraître délicieuse à ces êtres qui seraient à chaque heure menacés de mourir – c'est-à-dire à tous les hommes. (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」p33)


女というものはちらと見るときに最も美しいのである。これは女性の方々が男をひっかけたいと願うとき、くれぐれも注意しなければならない絶対的真理ではなかろうか。


笑いつつ少女らの通りすがるとき……

少女らの笑うのを聞くのはたのしい。

すると長いことその笑いは私の耳に残つている、

決して忘れられぬ、とすら私は思う……


lachende Mädchen begegnen...

Lachen hör ich sie gerne.

Lange dann liegt mir das Lachen im Ohr,

nie kann ichs, wähn ich, vergessen...


ーーリルケ「笑いつつ少女らの通りすがるとき」



谿を隔てた 山の旅籠の私の部屋

その窻の鳥籠に 窻掛けの裾がかかつてゐる

白い障子に影をうつして 女が一人廊下を通る

ああこのやうな日であつた 梶井君 君と田舍で暮したのも


ーー三好達治 「檸檬」の著者 



つぎに、想像力は所有しえないものへの欲望によってみちびかれるものであるとすれば、行きずりの女の魅力が一般に通行速度と正比例する路上の出会にあって、想像力の飛躍は、相手の実在が完全に知覚されるかされないかということで制限を受けるるのではない。田舎であっても、町のなかであっても、夜のとばりがおりはじめ、車が早く走っていさえすれば、女のトルソーは、われわれをひっぱってゆく速度や、物を闇に沈めてゆくたそがれのために、古代の大理石像のように手足をもぎとられていても、道の一角または一つ一つの店の奥から、美の矢でもってわれわれの心臓を射ずにはおかないであろう、そのような美は、この現実の世界では、なごり惜しさで強くかきたてられるわれわれの想像力が行きずりの女の消えさってゆくきれぎれの姿につけくわえる補足的な部分とは異なる何物かではないのか、とわれわれはときにはうたがいたくなるであろう。

すれちがう娘に、馬車からおりて話しかけることができるとしたら、馬車からは見わけられなかった皮膚の欠点などに、おそらく私は幻滅を感じたことであろう。(そうなれば、彼女の生活にはいりこもうとするどんな努力も、にわかに甲斐のないものに思われたであろう。なぜなら、美は、一連の仮定であって、ひとたび醜があらわれると、未知の行く手にひらけかかった道はふさがれ、仮定はしぼんでしまうからであるCar la beauté est une suite d'hypothèses que rétrécit la laideur en barrant la route que nous voyions déjà s'ouvrir sur l'inconnu.。)その娘のただのひとこと、ほんのわずかな微笑だけでも、彼女の顔の表情、動作を読むための、思いがけない鍵、暗号をあたえてくれたかもしれないが、それもたちまちつまらないものになってしまっただろう。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳p33)



女性の方々、男にへばりついて「未知の行く手にひらけかかった道」をふさがないようくれぐれもご注意を! 花は男に向かって開いてばかりいてはダメなのである、つれないふりをしないと。


ファウスト


もし、美しいお嬢さん。

不躾ですが、この肘を

あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。


マルガレエテ


わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。

送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

(……)


ファウスト


途方もない好い女だ。

これまであんなのは見たことがない。

あんなに行儀が好くておとなしくて、

そのくせ少しはつんけんもしている。

あの赤い唇や頬のかがやきを、

己は生涯忘れることが出来まい。

あの伏目になった様子が

己の胸に刻み込まれてしまった。 それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)



女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)


女性の好意は、段々に、ゆっくりとふり撒くことをおすすめする。プラトンは、いかなる種類の愛においても、受け身に廻る者はあっさりと性急に降参してはならないと言っている。そんなに軽率に、すべてを投げ出して降参するのは、がつがつしていることのしるしで、これはあらゆる技巧をこらして隠さなければならない。女性が愛情をふり撒くのに、秩序と節度を守るならば、一段とうまくわれわれの欲望をだまし、自分らの欲望を隠すことができる。いつもわれわれの前から逃げるのがよい。捕まえてもらいたい女性でもそうするのがよい。スキュティア族のように、逃げることによってかえってわれわれを打ち負かすのである。(モンテーニュ『エセー』)




美女美景なればとて不斷見るにはかならずあく事。(井原西鶴『好色一代女』)