ベケット25歳の事実上の処女作『プルースト』(1931年)はーーそれ以前に"Dante... Bruno. Vico.. Joyce"等の短いエッセイがあるらしいがーー、「泥 fango」で始まり、「死者 defunctus」で終わるのだな。
苦悩と倦怠、人生はそれ以外の何ものでもない。そして世界は泥だ。[Amaro e noia/ la vita, altro mai nulla; e fango è il mondo](レオパルディLEOPARDI「自分自身に A se stesso」1835年)
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人生は果たさるべき課役だ。この意味で「死者 defunctus」(ラテン語:人生の課役を果たしてあの世へ行った人)は素晴らしい表現だ。[Das Leben ist ein Pensum zum Arbeiten: in diesem Sinne ist defunctus ein schöner Ausdruck.](ショーペンハウアー Schopenhauer『余録と補遺 Parerga und Paralipomena』1851年)
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世界は泥だってのは
世界はデルタってことだろうな、
デルタの課役をしっかり果たしておかないと
いつまでたっても死者になれないよ
二つのデルタに遭遇しカラカラになってしまったのである
あれこそ真の課役であった。
さて何の話だったか・・・
ベケット=プルーストである。
comment a-t-on le courage de souhaiter vivre, comment peut- on faire un mouvement pour se préserver de la mort, dans un monde où l'amour n'est provoqué que par le mensonge et consiste seulement dans notre besoin de voir nos souffrances apaisées par l'être qui nous a fait souffrir ? (Proust, La prisonnière (Première partie) p183, La Bibliothèque électronique du Québec )
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《人はどうして生きたいとねがう勇気がもてようか、どうして死なないための力をふるいたたせることができようか? 相手がつくうそによってしか愛がかきたてられない世界、われわれを苦しめた相手にその苦しみを鎮めてもらいたいという欲求のなかにしか愛が存在しない世界、そういう世界のなかで。》(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳P158からだが、訳文が倒置されているので原文通りに変更した)
たしかに文学全体を見渡しても、孤独と、ひとびとが愛と呼んでいる責め合いとのあの砂漠、それをあのように悪魔的な悪練さをもって持ち出し展開させた研究はない。これを読んだあとでは、「アドルフ』も、せっかちな滴り、唾液分泌過度の疑似叙事詩、涙を流すカンプルメール夫人〔・・・〕に過ぎない。(ベケット『プルースト』)
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