目的ノ地ハでゆらす往時棲息地ヨリモ更ニ西ヘ百粁程向フ国境ノ町ナリ。大河ノ渡船既ニ営業終了時刻ニ到着シ故、親族ノ家ニ到ル事叶ズ、当夜ハ町中ノ古宿ニ泊ス。
夜のことは覚えている。青い色が空よりもっと遠くに、あらゆる厚みの彼方にあって、世界の奥底を覆いつくしていた。空とはわたしにとって青い色をつらぬくあの純粋な輝きの帯、あらゆる色の彼方にある冷たい溶解だった。ときどきヴィンロンでのことだが、母は気持ちが沈んでくると、小さな二輪馬車に馬をつながせて、みんなで乾季の夜を眺めに野原に出た。あれらの夜を知るために、わたしには運よくあのような母がいたことになる。空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。(マグリッド・デュラス『ラマン』)
宿ハ灌水浴器ノ設備無ク、盥ニ蹲踞シ甕ノ水ニテ沐浴ス形式ナリ。嗚呼、潤ヒ滑ル温イ水ノ何タル官能ヨ、就中耳殻裏ヲ流ルル蕩揺タル水ノ感触、 豈是ノ悦楽ヲ欣々慶賀セザルヲ得ン耶。
明朝、花咲ク乙女ヲ清メルベシ。
朝の暑気はすでに懲りずに部屋を犯していた。汗に濡れた寝床を見捨てて、水を浴びるときにはじめて感じる肌の朝〔あした〕は、本多にはめずらしい官能的な体験だった。一旦理智をとおすことなしには、決して外界に接しない性質〔たち〕の本多にとって、ここではすべてが肌をとおして感じられ、自分の肌が、熱帯植物のけばけばしい緑や、合歓の真紅の花や、寺を彩る金の華飾や、突然の青い稲妻などによって、時あって染められることによって、はじめて何ものかに接するという体験ほど、めずらしいものはなかった。あたたかな驟雨。ぬるい沐浴。外界は色彩のゆたかな流体であり、ひねもすこの流体の風呂に浸っているようなものだ。(三島由紀夫『暁の寺』)