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2020年9月29日火曜日

触覚の作家谷崎潤一郎


要は下駄を脱ぎ捨てて足袋の底に冷めたい廊下のすべすべした板を蹈んだとき、一瞬間遠い昔の母のおもかげが心をかすめた。蔵前の家から俥の上を母の膝に乗せられて木挽町へ行った五つか六つの頃、茶屋から母に手を曳かれて福草履を突っかけながら、歌舞伎座の廊下へ上るときがちょうどこんな工合であった。(谷崎潤一郎『蓼食う虫』)


谷崎潤一郎は触覚の作家だというのはかつてから語られてきた。

視覚の感受性、聴覚の感受性、嗅覚の感受性など、それぞれ作家には感度の鋭さや鈍さがあるだろう。どの作家に惹かれるのかは、これもまた読者の感受性による。たとえば谷崎潤一郎は触覚の作家だろう。一般に視覚の作家が愛でられることの多いのは、読み手も視覚の感受性が他の感受性に比べて際立つひとが多いせいではないか。

成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体harmonious mix-upの感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。(中井久夫「発達的記憶論」2002年初出『徴候・記憶・外傷』)


次の文で、松浦寿輝は「触覚的ナルシシズムあるいはイマジネール以前のイマジネール」と「イメージの世界に移行したナルシシズム」とを対比させているがーー松浦はフロイトをコッソリ熱心に読んでいるのが明らかな人だがーー前者がリアルな原ナルシシズム(本来の享楽)、後者はファルスに構造化されたナルシシズム、つまり「二次ナルシシズム」であり、ファルス享楽の審級にある(参照;ファルス享楽と大他者の享楽(女性の享楽)について)。聴覚、嗅覚、触覚の感受性が弱く視覚偏重の人は、ファルス人格よりである。


乳首と唇との関係から決定的に排除されているものは、視力である。見ることが介入するや否や、乳首と唇はたちまち離反せざるをえない。乳首と唇との盲目的な触れ合いが乳児の触覚的ナルシシズムを養っていたのだが、乳児が、自分の身体と世界との関係を視覚的なモデルに基づいて構築しはじめる時点以降、ナルシシズムはイメージの領域へと移行する。ここでイメージとは、唇によってであれ指によってであれ、触れえないもの、ひとたび触れるや消滅してしまうもののことであり、美少年ナルシスが水面の上に見つめる自分自身の映像がその代表的な例をなすことになろう。乳離れは、視力の導入によって可能となるのである。〔・・・〕
この文脈でやや唐突ながら谷崎潤一郎の名前を出すとすれば、とりあえず『母を恋ふる記』(一九一九年)などを挙げ、とりわけその末尾の、夢に現われた亡き母が「私をしつかりと抱きしめたまゝ立ちすくんだ。私も一生懸命に抱き附いて離れなかつた。母の懐には甘い乳房の匂が暖かく籠もつてゐた」などという部分を引いてみたりするのが、いわば順当なやりかたというものだろう。しかし、谷崎潤一郎が母性思慕の作家であるとした場合、「甘い乳房の匂」への郷愁が、単に物語の主題であったり描写の対象であったりするばかりではなく、むしろそれ以上に、作品を物質的にかたちづくっている言葉の織物にじかに「暖かく籠もつてゐ」る、むっと鼻をつくような馥りとしてあるという点こそ重要と言うべきだろう。母の乳房などとは何の関係もない事柄が語られている箇所でも、目の詰まった言葉の糸で粘りつくように織り上げられているあの触覚的なエクリチュールそのものに、むっとするような乳の匂いが漂い、またその表面にそっと触れてみると、あたかも乳児の唾液にまみれた乳首のような濡れた質感が伝わつてくるかのようなのだ。その場合、谷崎の言葉がそうした生臭い匂いやじっとりした質感を帯びるうえで、視力の喪失という手段が恐らく決定的な役割をはたしているのではないだろうか。もちろんわれわれはここで、『盲目物語』(一九三一年)と『春琴抄』(一九三三年)というあの二篇の傑作を思い浮かべているのだ。
『盲目物語』でも『春琴抄』でもべつだんとりたてて女性の乳房が登場するわけではない。だが、そこには、視力の喪失によってのみ可能となるような特異な官能性が漲っており、それは性交によるオルガスムスの擬似体験よりはむしろ、無意識的な幼児期における乳首と唇との至福の交合の不意の再現に近いものであるかに思われるのだ。谷崎の繰り出しつづける粘着的な言葉の流れに身を浸していると、人はあたかも羊水に全身を浸して暗闇を漂っているかのような印象さえ受ける。もはや遠近のパースペクティヴもなく、中心と周縁とを分かつヒエラルキーもない、パースペクティヴやヒエラルキーといった視覚的秩序によって組み立てられた世界像、つまり世界のイメージそのものが刻々と崩壊し、ワタシニ触レルナカレという命令が平然と無視されて、言葉と言葉との結びつきが肌の滑らかさや肉の柔らかさによってのみ可能となるような、イマジネール以前のイマジネールが展開してゆく。
『春琴抄』の佐助は、晩年になってから「しばしば掌を伸べてお師匠様の足はちやうど此の手の上へ載る程であつたと云ひ、又我が頬を撫でながら踵の肉でさへ己の此処よりはすべすべして柔らかであつたと」語ったという。だがこれは、むしろ谷崎の言葉が言葉それ自身をめぐって呟いている感想なのではないか。
女体への谷崎の執着が、とりわけ足という部位に焦点を結ぶものであったことはよく知られている。若い女の柔らかな蹠をフェティッシュとして聖化しそれで顔を踏まれることの快楽を夢想してやまない谷崎的マゾヒズムが、文学的に昇華された倒錯的症例の一形態としてしばしば語られるわけだが、谷崎の織り上げてゆく言葉の物質的表情それ自体は、むしろ乳房と唇とのかすかな触れ合いがいつまでも引き延ばされてゆくといった印象をかたちづくっているように思う。盲目という特権的主題がそれをさらに誇張するのだが、瞳を失った者のイマジネールは、内面的な暗闇の中に引き籠もってゆく代わりに、肉と肉の物質的な接触へと向かってあくまで凶暴に開かれてゆくことになるのだ。乳首と唇のエクリチュール。

『春琴抄』の冒頭部分を読み返してみよう。「輪郭の整つた瓜実顔に、一つ一つ可愛い指で摘まみ上げたやうな小柄な今にも消えてなくなりさうな柔かな目鼻がついてゐる」 ――盲目の春琴の顔の描写だが、「可愛い指で摘まみ上げたやうな」という措辞が暗示を誘うのか、これが、着物の下に隠されたまま作中一度も直接に描写されることのない彼女の裸体の描写、もっと直接的には、乳房の描写そのものであるかのような錯覚に、われわれはふと囚われる。折々の夜、佐助が畏敬の念とともに触れていたに違いない春琴の乳房もまた、「小柄な今にも消えてなくなりさうな柔かな」ものだったに違いない。(松浦寿輝「乳房が眼を閉じる」『官能の哲学』2001年)

ーーなお中井久夫は1994年の「「読者アンケート」(みすず)にて、その年の第一に松浦寿輝の「口唇論」(1985年)を掲げて次のように書いているーー、《これは一つの「宇宙」である。ほとんどすべてがある。不明にして発行当時よく理解していなかったと改めて思う。近著「平面論」から遡って著者を読んでいったのがこの夏の仕事であった》。


さてもうひとつ、『陰翳礼讃』から掲げておこう。

私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味(ぬくみ)とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるか見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣(ふく)む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心特、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。     
私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。茶人が湯のたぎるおとに尾上の松風を連想しながら無我の境に入ると云うのも、恐らくそれに似た心特なのであろう。日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたゝく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。(谷崎潤一郎 『陰翳礼讃』)


ファルスの彼岸に退行して書く「聴覚、嗅覚、触覚の感受性の作家」に対してファルス人格の読み手は、下品とか薄汚いとか感じることもあるのかもしれない。

嗅覚についてだが、ホルクハイマー&アドルノは次のように言っている。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)