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2020年9月25日金曜日

愛と享楽の相違

「愛と享楽の相違」としたが、ラカンの享楽とは基本的には、フロイトの愛、フロイトのエロスである。

まず享楽=リビドー である。

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

そしてリビドーは愛の力、エロスエネルギーである。

リビドーは、愛の力の表出である。リビドー は自己保存欲動における「飢え」と同一である。Die Libido war in gleichem Sinne die Kraftäußerung der Liebe, wie der Hunger des Selbsterhaltungstriebes. (Freud, “Psychoanalyse” und “Libido Theorie”, 1923)
愛自体は、渇望・欠如である。Das Lieben an sich, als Sehnen, Entbehren (フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)


ただしラカンは、リアルな愛、イマジネールな愛、シンボリックな愛を区別したということはある。それぞれ、「(本来の)享楽」「想像的自我の享楽」「ファルス享楽」であり、よりわかりやすくは「享楽自体」「ナルシシズム」「欲望」である。

そしてラカンはナルシシズムを通常巷間で語られるところの愛とした。

愛することは、本質的に、愛されたいことである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛はナルシシズムである。「ナルシシズム的リビドー」と「対象リビドー」の二つは対立する。 l'amour c'est le narcissisme et que les deux s'opposent : la libido narcissique  et la libido objectale.. (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)
愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)

そしてこのイマジネールな愛は、リアルな愛の根にある去勢(享楽の控除)を隠蔽するものとした。

愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
去勢と呼ばれるものは、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、われわれは通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] …これが欲望の原因としての対象aである。[(a) comme cause du désir]。(Lacan, S15, 10  Janvier  1968)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


この « - J »(斜線を引かれた享楽)がモノのことである。



モノにかかわる語彙は種々あるが、「不気味な異者としての女」で示したように、以下の表現群はすべて等価である。


そして享楽=去勢=モノである。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


ラカンのリアルな愛、イマジネールな愛、シンボリックな愛の区分は、実はすでにフロイト1914年に現れている。



ーー原ナルシシズムと去勢の関係は、「去勢の原像と原ナルシシズムの原像」を参照されたし。

上の図のそれぞれはフロイトの後年の用語なら、ナルシシズム的リビドー (二次ナルシシズム的リビドー )、対象リビドー、原ナルシシズム的リビドー。



ラカン用語なら次の通り。


より厳密にはボロメオの環の重なり目の問題があるが、基本的には上の区分がフロイト=ラカンである。





欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)
欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)
愛は欲望の昇華である。l'amour est la sublimation du désir (ラカン, S10, 13 Mars 1963)


そしてフロイト用語をボロメオの環に代入すればこうなる。







人間は二つの根源的な性対象を持つ。すなわち、ナルシシズム型
narzißtischen Typusとアタッチメント型Anlehnungstypusである。この二つは、対象選択において最終的に支配的となるすべての人間における原ナルシシズム primären Narzißmusを前提にしている。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年、摘要)
あとはナルシシズム型をナルシシズム的リビドー、アタッチメント型を対象リビドーに読みかえればよい。

対象リビドーがナルシシズム的リビドーへ移行することは、明らかに性的目標の放棄をもたらし、非性化、すなわち昇華の一種となる。Die Umsetzung von Objektlibido in narzißtische Libido, die hier vor sich geht, bringt offenbar ein Aufgeben der Sexualziele, eine Desexualisierung mit sich, also eine Art von Sublimierung. (フロイト『自我とエス』第3章、1923年)
少女たち、情愛への過剰な欲求と同時に性的生の現実的要求への過剰な恐怖をもつ少女にとって、非性的愛の理想は、抵抗しがた誘いである一方で、情愛の背後に(リアルな)リビドーを隠蔽している。Für die Mädchen mit übergroßem Zärtlichkeitsbedürfnis und ebensolchem Grausen vor den realen Anforderungen des Sexuallebens wird es zu einer unwiderstehlichen Versuchung, sich einerseits das Ideal der asexuellen Liebe im Leben zu verwirklichen und andererseits ihre Libido hinter einer Zärtlichkeit[…] zu verbergen(フロイト『性理論三篇』第3章、1905年)



リアルなリビドー としての原ナルシシズム的リビドーについては、上にもリンクしたが、その内実は「去勢の原像と原ナルシシズムの原像」にある。

根源的なナルシシズム的リビドー ursprünglich narzisstischen Libidoとは、死に向かう欲動であり、最終目的地は原マゾヒズム欲動(自己破壊欲動)と同じである。


目標は死 Das Ziel ist der Tod
原ナルシシズム
原マゾヒズム
Urnarzißmus
Urmasochismus


死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance]。 (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
死は愛である [la mort, c'est l'amour.] (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)
ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


……………


なお、リアルのレベルでの「ラカンの享楽=フロイトのエロス」については、以前に何度も掲げたが、次の引用群を読めば納得するはずである。

エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃墟Aufhebungしようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン, S19,  03 Mars 1972 Sainte-Anne)


大他者の享楽=エロス=死
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
大他者の享楽は不可能である[jouissance de l'Autre […] c'est impossible]。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味[le sens de ce qui relève de la mort.]に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)

大他者の享楽=身体の享楽
大他者は身体である![L'Autre c'est le corps!] (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。[la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps] . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)

大他者の享楽=自己身体の享楽=異者としての身体の享楽
大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない。La jouissance de l'Autre, […] il n'y a que la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009)
自己身体の享楽はあなたの身体を「異者としての身体 corps étranger」にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


究極の「異者としての身体 corps étranger」とは、去勢によって喪われた母の身体である。

モノ=異者=母の身体
モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
ラカンは「母はモノである」と言った。母はモノのトポロジー的場に来る。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme  - 28/1/98)

モノ=去勢
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

去勢の原像(「自己身体=母の身体」の喪失)
乳幼児はすでに母の乳房がひっこめられるのを去勢、つまり自己の所有と見なしていた身体の重要な一部分の喪失と感じるに違いないこと[daß der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils empfinden mußte]、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 がそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像である[der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist]ということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


以上、フロイトラカン理論においては(リアルのレベルでは)人はみな出生とともに「享楽の喪失=エロスの喪失」を以て生きる存在だということになる。



これが、《愛自体は、渇望・欠如である。Das Lieben an sich, als Sehnen, Entbehren 》(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)の内実であり、人は死ぬまで渇望・欠如がやまない。  


我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)
Or vedi la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume, dell'uomo che con continui desideri sempre con festa aspetta la nuova primavera, sempre la nuova state, sempre e' nuovi mesi, e' nuovi anni, parendogli che le desiderate cose venendo sieno troppe tarde, e non s'avede che desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, che trovandosi rinchiusa pro anima dello umano corpo desidera sempre ritornare al suo mandatario. E vo' che s'apichi questo medesimo desiderio en quella quintaessenza compagnia della natura, e l'uomo è modello dello mondo.(Codice Leonardo da Vinci)