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2020年9月27日日曜日

カオスからの脱出方法



ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年
無意志的なもの
involontaire
積極的意志
 bonne volonté
パトス
pathos
ロゴス
Logos
感受性
sensibilité
観察
observation
思考
pensée
哲学
philosophie
翻訳
traduction
反省
réflexion
amour
友情
amitié
沈黙した解釈
interprétation silencieuse
会話
conversation
noms
言葉
mots
暗示的シーニュ
signes 
implicites
明示的意味作用
significations explicites
象形文字
hiéroglyphes
分析的表現
expression 
analytiquc

ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第3版追加の章より、1976年
無意志的シーニュ
signes involontaires
意志的シーニュ
signes 
volontaires
暴力と狂気の
シーニュ
Signes de violence et de folie
論理と美しい言語
la logique et 
le beau langage




哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。
(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)




無意志的的シーニュ/意志的シーニュ
シャルリュスが至高のロゴスの師であるとしても、しかし彼の言説は「無意志的シーニュ」によって動かされている。無意志的シーニュは、言語の卓越した組織化に抵抗し、語と句に支配されることを許容せず、ロゴスを逃走させ我々を別の領域に導き入れる。
Si Charlus est le maître apparent du Logos, ses discours n'en sont pas moins agités par des signes involontaires qui résistent à l'organisation souveraine du langage, qui ne se laissent pas maîtriser dans les mots et les phrases, mais font fuir le logos et nous entraînent dans lin autre domaine. 
《彼が自分のありとあらゆる憎悪をどんなりっぱな言葉で色どってみせたところで、あるはずみに誇が傷つけられたり、またあるはずみに失恋したり、あるいは怨恨、サディスム、からかい、固定観念があった場合でも、この男は人を殺しかねないと感じられた。« De quelques belles paroles qu'il colorât ses haines, on sentait que même s'il y avait tantôt de l'orgueil offensé, tantôt un amour déçu, ou une rancune, du sadisme, une taquinerie, une idée fixe, cet homme était capable d'assassiner ... »》(プルースト「ゲルマントのほう」)
暴力と狂気のシーニュ、それは《論理と美しい言語》によって配置された「意志的シーニュ」に対して、かつその下で、或る全パトスを構成する。このパトスはそれ自体にむけて自らを顕現する。〔・・・〕それはもはや言説の世界ではない。規則と場のヒエラルキーを表現する垂直的コミュニケーションでもない。そうではなく。常軌を逸した横断的コミュニケーションをともなったアナーキー的出会いの世界・暴力的偶然の世界である。
Signes de violence et de folie, qui constituent tout un pathos, contre et sous les signes volontaires agencés par « la logique et le beau langage ». C'est ce pathos qui va maintenant se révéler pour lui·même,[…] Ce n'est plus le monde des discours, et de leurs communications verticales exprimant une hiérarchie de règles et de positions, mais le monde des rencontres anarchiques, des hasards violents, avec leurs communications transversales aberrantes. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能ーークモーー」第3版追加章、 1976年)




無意志的回想のブラックホールからの脱出
『スワンの恋』、プルーストは顔、風景、絵画、音楽などを共鳴させることができた。スワン - オデットの物語の中の三つの契機。
まずシニフィアンの装置が一つ出来上がる。白または黄みを帯びた大きな頬とブラック・ホールの目をそなえたオデットの顔。しかし、この顔自体、同じように壁の上に配置された他のものとたえず関連する。それはスワンの審美主義、アマチュアリズムにほかならない。シニフィアンの記号におおわれた解釈網の中で、何かが他の何かを呼び起こすことがスワンには必要なのだ。一つの顔は一つの風景と関連する。一つの顔は一枚の絵、絵の一部を「喚起rappeler」せずにはいない。一つの音楽はオデットの顔に連結される小楽節を響かせ、この楽節はもはや一つの信号にすぎなくなる。いたるところにホワイト・ウォールができ、ブラック・ホールが配置される。[Le mur blanc se peuple, les trous noirs se disposent]
解釈が関連しあう中で、意味性からなるこの装置全体が、第二の、主体的情念的契機を準備し、そこにスワンの嫉妬、好訴性、色情狂 [la jalousie, la quérulance, l'érotomanie]が昂じていく。いまやオデットの顔は、唯一のブラック・ホール、スワンの「情念」というブラック・ホールに雪崩れこむ線にそって走る[Voilà maintenant que le visage d'Odette file sur une ligne qui se précipite vers un seul trou noir, celui de la Passion de Swann]。その他の風景性、絵画性、音の線すべては、この緊張症的な穴[trou catatonique ]に向かって急ぎ、そのまわりに巻きつき幾重にも縁取ることになる。
しかし、第三の契機では、長い情念のトンネルを脱けて、スワンはある集いに出かけ、そこでまず、使用人や招待客の顔が、自立した美学的な特徴へと解体されるのを見る。あたかも壁の向こう側と同時にブラッック・ホールの外でも、絵画性の線が独立性を再発見するかのように。次には、ヴァントゥイユの小楽節が超越性を取り戻し、より強度の、非意味的な、非主体的な純粋な音楽性の線[une ligne de musicalité pure encore plus intense, asignifiante, asubjective]と結び合う。
そのときスワンは理解するのだ、もはやオデットを愛してはいないと。そして何よりも、オデットは二度と自分を愛しはしないだろうと。 ーースワンは、プルーストと同じく、救われることはないのだから。芸術によるこんな救済が必要だったのだろうか。愛を放棄して、壁を貫き、穴から脱け出すにはこんな仕方によらねばならなかったのか[Fallait-il cette manière de percer le mur ou de sortir du trou, en renonçant à l'amour ? ]。最初からこの愛は嫉妬と意味性からできていて、腐蝕していたのではないか。他の結末はありえなかったのではないだろうか。凡庸なオデットと審美家のスワンという二人だったのだから。
ある意味でマドレーヌの話もこれと同じだ。口の中にマドレーヌをころがす話者、冗長性、無意志的回想のブラックホール[Le narrateur mâchouille sa madeleine : redondance, trou noir du souvenir involontaire]。どうやって彼はそこから脱け出せるだろうか。結局これは脱出すべきもの、 逃れるべきものなのだ[Avant tout, c'est quelque chose dont il faut sortir, à quoi il faut échapper]。プルーストはそのことをよく知っていた。 彼を注釈する者たちにはもう理解できないことだが。しかし、そこから彼は芸術によって脱け出すだろう、ひたすら芸術によって。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)




クモという「器官なき身体」
しかし器官なき身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない、クモはただその巣のはしのところにいて、強度を持った波動のかたちで彼の身体に伝わって来る最も小さな振動をも受けとめ、その振動を感じて必要な場所へと飛ぶように急ぐ。眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。
Mais qu'est-ce que c'est, un corps sans organes ? L'araignée non plus ne voit rien, ne perçoit rien, ne se souvient de rien. Seulement, à un bout de sa toile, elle recueille la moindre vibration qui se propage à son corps en onde intensive, et qui la fait bondir a rendrait nécessaire. Sans yeux, sans nez, sans bouche, elle répond uniquement aux signes, est pénétrée du moindre signe qui traverse son corps comme une onde et la fait sauter sur sa proie.
『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手 = クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれそれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。
La Recherche n'est pas bâtie comme une cathédrale ni comme une robe, mais comme une toile. Le Narrateur-araignée, dont la toile même est la Recherche en train de se faire, de se tisser avec chaque fil remué par tel ou tel signe : la toile et l'araignée, la toile et le corps sont une seule et même machine. 
語り手に極度の感受性、異常な記憶力が与えられても役に立たない。それらの能力についての、意志的で有機的ないかなる使用もできない範囲で、彼には器官がない。逆にひとつの能力は、余儀なく強制されるときには、語り手において行使される。そしてこの能力に対応する器官が、この能力に重ねて置かれるが、しかしそれはその無意志的な使用を惹起する活動によって眼覚めさせられた強度の素描としてである。
Le narrateur a beau être doué d'une sensibilité extrême, d'une mémoire prodigieuse : il n'a pas d'organes pour autant qu'il est privé de tout usage volontaire et organisé de ses facultés. En revanche, une faculté s'exerce en lui quand elle est contrainte et forcée de le faire; et l'organe correspondant se pose sur lui, mais comme une ébauche intensive éveillée par les ondes qui en provoquent l'usage involontaire. 
そのたびごとに、或る性質を持ったシーニュに対する「器官なき身体」の包括的で強度な反作用として存在する無意志的感受性、無意志的記憶、無意志的思考。『失われた時を求めて』の粘着性のある糸にひっかかる小さな箱のそれぞれを開けるか閉じるために動くのは、この身体 = 巣 = クモである。
Sensibilité involontaire: mémoire involontaire, pensée involontaire qui sont chaque fois comme les réactions globales intenses du corps sans organes a des signes de telle ou telle nature. C'est ce corps-toile-araignée qui s'agite pour entrouvrir ou pour fermer chacune des petites boîtes qui viennent heurter un fil gluant de la Recherche. 
語り手の異者的可塑性。スパイ、警官、嫉妬する者、解釈する者、そして要求する者ーー狂人ーー普遍的な分裂症者である語り手のこの身体= クモが、そこから自分自身の錯乱の操り人形、おのれの器官なき身体の強度な力、おのれの狂気の輪郭を作るために、パラノイアであるシャルリュスに一本の糸をのばそうとし、色情狂であるアルベルチーヌにもう一本の糸をのばそうとする。
Étrange plasticité du narrateur. C'est ce corps-araignée du narrateur, l'espion, le policier, le jaloux, l'interprète et le revendicateur ― le fou ― l'universel schizophrène qui va tendre un fil vers Charlus le paranoïaque, un autre fils vers Albertine l'érotomane, pour en faire autant de marionnettes de son propre délire, autant de puissances intensives de son corps sans organes, autant de profils de sa folie. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「狂気の現存と機能ーークモーー」第3版追加章、 1976年)






パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。
A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)



リトルネロ  ritournelle
暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれ esquisse d'un centre stableであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ calme, stabilisant et calmant, au sein du chaos。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる début d'ordre dans le chaos。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険 risque aussi de se disloquer à chaque instant もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』1980年)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)
リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)
リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 1974)






〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」であり、シニフィアンの空無化作用によって生み出された「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, […] c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール Colette Soler, Humanisation ?,  2014)



オルギアとレリギオ
母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)
ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)
個を越えた良性の権威へのつながりの感覚(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


父なき時代
「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。
…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

父の蒸発 évaporation du père(「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
中井久夫)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(批評空間 2001Ⅲ-1 「共同討議」トラウマと解離、斎藤環/中井久夫/浅田彰)

エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)

支配的父の名なき「父の名の使用」
人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)


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