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2020年9月4日金曜日

マルチチュードからコモンティスモへ

まず柄谷の1980年前半の記述から始める。

…「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容 }という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式 }に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性 }という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異 }に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』1983年)

ここには二つの逆転事例が示されている。

{(形式/内容)内容 }➡︎{(内容/形式)形式 }
{(差異/同一性)同一性 }➡︎{(同一性/差異)差異 }

後者を取り上げよう。



左側の図は、同一性という支配的イデオロギーが底部にあって、その釈迦の掌の上で、イデオロギーの代理人としての同一性という体制主義者があり、それに対して差異を志向する反体制主義者がいるという風に読むことができる。

右図も読み方は同じである。差異という非イデオロギー的ではありながらしかし人々の規範になっているという意味で「支配する」イデオロギーの上で、その代理人の差異という体制主義者があり、それに対して同一性という反体制主義者がいる。

「差異という体制主義者」同一性という反体制主義者」と書くといかにも奇妙だが、論理的にはこうなる。

そして前回示した岩井克人の「資本の主義/資本の論理」はこの捉え方にて図示できる。《資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。》



じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集、1990年)

後期ラカンーー1973年4月までのラカンと真の後期ラカンである1973年5月以降のラカンは異なるがーー、事実上の後期ラカンは次のように示せる。






リーバイ・ブライアントは、ラカンの男性の論理/女性の論理(全体化/非全体)について次のように記しているが、これはとても優れて簡潔な注釈である。

女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan, Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy, 2008)





(この段階でのラカンは「全体化」の論理としての象徴界=ファルス秩序の裂け目に現れるのが「非全体」としての女性の享楽だとしたが、1973年5月以降、女性の享楽が一般化されて男女ともの人間のベースにある享楽自体とされるようになる。晩年のラカンにとって主体性とは女性性のことである。その根源にある身体的な女性性に対する防衛として「詐欺師の審級にあるファルス=言語がある。この意味で真の後期ラカンの母胎(分母)は非全体[le pastout]である。ラカンはこれを非関係[le non-rapport]と呼ぶようになる。)


前回示した「主人の言説/資本の言説」用語で示せば次のようになる。




このように示せば、岩井克人の発言から導き出した先に掲げた図と実に相同的であることがわかるだろう。




もっともこれも前回示しように、柄谷やラカンの核心は、ふたたび資本の言説から主人の言説へと再再度戻ろうと言うことではない。主人=父は必要だが、支配の原理に陥りがちな「主人=父」自体ではなく、父の原理を新たに設置しなければならないということである。





柄谷における「父の原理」に相当する表現群は、超越論的統覚X、アソシエーションのアソシエーション、可能なるコミュニズム、世界共和国、統整的理念、帝国の原理等である。

柄谷は差異の論理にすぎないマルチチュード的政治闘争を単純すぎると批判し続けてきた。これはまたジジェクが次のように言う理由である。

私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ [we should stop with this multitudes, with no-power]と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク, Pornography no longer has any charm, 19.01.2018)


ネグリの転回については次の発言がそれを明瞭に示している。

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


この発言の前段では、コミュニズムという語を口に出している。

なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



理論的にはこうであるべきながら、ではどうすべきかという実現性の高い具体的施策はいまだ誰も提出できていないのが実際であろう。