広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。(……)その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
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以下の記述は、人間の社会的つながりは経済的なものであるという前提で書かれている。ラカンの言説理論自体、コミュニケーション理論であり、フロイトがしばしば語った「経済的条件 ökonomischen Bedingungen」のもとにある。
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さて何度か掲げているが、岩井克人は1990年の柄谷行人との対談で、ある意味で決定的なことを言っている。「決定的」というのは、この認識をもっているか否で、現在の左翼的活動を判定するツールになるという意味である。そして現在日本の左翼中堅や若手でこの認識を持っている人間を探しだすのはひどく困難である。私に言わせればこの事態はただちに事実上の「左翼人材の払底」につながっている。
以下、やや長いがその箇所を掲げる。
ふたつの資本主義(資本の主義/資本の論理)
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じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。
実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。
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社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北
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そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。
と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。
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社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。
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資本の論理=差異性の論理
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……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。
それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集、1990年)
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次の岩井1985年の文での「資本主義」は、文脈を読めばすぐわかるように「資本の主義」ではなく「資本の論理」のことを言っている。
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資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985年)
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次の柄谷 2001年は、岩井克人の認識のヴァリエーションと捉えうる。
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私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
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岩井克人の発言のなかに《資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、…ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだした》、あるいは《社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者》とあるが、この「資本の主義」が柄谷のいう1990年以前の資本の世界である。それに対して1990年以降に如実になった《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動》が差異を媒介として無限の増殖するのが「資本の論理」である。
もともと「資本の主義」は獰猛で勝手気ままな「資本の論理」を飼い馴らすエディプス的制度である。
ここでミレールは何を言っているのか。父の名は超自我を飼い馴らし機能があるが、充分にはけっして飼い馴らせず必ず残滓があるゆえの享楽の意志=欲動ということを言っている。
ここでやや飛躍して言うが、現在の左翼の役割はエディプス的父を叩くことでは全くない。上部が失墜しての底部の資本の欲動の露出が、1968年の学園紛争前後から徐々に始まり1989年に「マルクスという父」が決定的に消滅して顕著になった。これが現在の支配的イデオロギーとしての「資本の欲動=資本の言説」である。さらにこれが柄谷曰くの《資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動》が《「支配的思想=支配階級の思想」》になったの意味である。
ドゥルーズ &ガタリのアンチオイディプスやら家父長制打倒!などと馬鹿のひとつ覚えのようなスローガンをもって活動するのが現在の反体制主義者ではないのである。未だそうしている連中は現在の支配的イデオロギーにドップリ浸かっているという意味で体制主義者である。 資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動が「支配的思想=支配階級の思想」になったという柄谷の認識はジジェクの認識でもある。
したがって旧套の頭のかたそうな「左翼」がジジェクの発言に大きな違和を感じるなどという現象が起こる。「主人=父」が存在した時代のドゥルーズのアンチオイディプスやフーコーやらの戦略をいまだ文字通りに受け止め、父なき時代の「支配的イデオロギー」にドップリつかったマヌケーー知の間が抜けているーーインテリがその典型である(もっともドゥルーズ においては1960年代の仕事、そして1980年前後以降の仕事には現在の欲動の時代の処方箋として多くの示唆があるし、後期フーコーも同様である。つまりフーコーは多神教時代のギリシア、事実上の父なき時代に依拠して論理展開をしており大いに現代の父なき時代の処方箋として活用しうる相がある。逆にジジェクにおいては後期ラカン観点からはその現実界の捉え方が大いに問題はあるのが現在鮮明化されつつあるが[参照]、それはここでの話題ではない)。
父の名の使用とは「父の原理」と言い換えうる。すなわち「父の名/父の原理」である。現在の左翼の仕事は「父の原理」として機能する何ものかを提示して「行為の遂行=既存体制の座礁軸の変革」を促すことである。柄谷やジジェクなどのさまよいに見られるようにそれはとても困難な仕事でありながら、享楽という欲動の身体ーーこれをエティエンヌ・バリバールは「エスの悪」と呼んでおり、レイシズムの猖獗はその典型例であるーーその欲動の身体飼い馴らし、あるいは「資本の欲動」という支配的イデオロギーを転覆させるにはそれしかない。
繰り返せば、家父長制打倒やらエディプス的権威の転覆やらといまだ騒ぎ立てている旧套の左翼連中は典型的な「現在の」体制主義者でしかない。
古代ギリシア時代のような多神教の時代、一神教的父なき時代にはーーもともと日本文化はその傾向を持っているが、かつては礼節=レリギオが父の名として機能している時代があったーー、欲動の飼い馴らされていない暴力が露顕する。その爆発物に対する制度がフーコーのいう自己統御・自己陶冶である。
家畜化されていない欲動の父なき時代にアンチ体制主義者であるためには、面白くないことを重々承知しながら、エンクラティア・ソフロシューネを獲得することが最低限の条件である。そうでなかったら時代の精神と馬鍬っているにすぎない。
次のニーチェ文がフーコーやドゥルーズの何よりもまずモットーだった。
だが彼らの時代とは支配的イデオロギーが変わったのである。当時の家父長的原理から現在は欲動の身体、新自由主義という名のもとの資本の欲動が支配的イデオロギーである。このとき反時代的な行動様式とは何かをもう言うまい。他者への罵倒・嘲弄、たとえば「ばーか」と言い放てば、世間で受ける。SNSをやっていればこういったエスの身体に身をまかせてしまう誘惑は大きい。
だがそれは《自分で目隠しをし、自分で耳に栓をし》つつ、支配的イデオロギーと馬鍬っているにすぎない。これは私も時にやってしまうので自戒としても読んでいただきたい。 |