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2020年9月5日土曜日

アンチオイディプスに影響された後期ラカン

いやあ前回すこしだけ示した後期ラカンの「性別化の式」からの転回だけど、ドゥルーズ研究者がいまだラカンの性別化の式をとるというのは倒錯的だよ。そもそも後期ラカンにおいて性別化の式のデフレは明らかにあるのだから、たんに知らないだけだと思うな。

以下、ミレールを3つ、列挙しておくけど。

◼️サントームのセミネールにおけるアンチオイディプスの影響
ドゥルーズ &ガタリのアンチ・オイディプスへのラカンの応答。彼らは言った。精神分析におけるあなた方は、神経症から考えている。そしてドゥルーズ &ガタリの方法は、精神病から・分裂病から考えようとしたことだ。(…)だがある仕方で、サントームのセミネールは、アンチオイディプスのポジ化である。c'est sa réponse à L'anti-Œdipe de Deleuze et Guattari […] en disant : vous, dans la psychanalyse, vous pensez à partir de la névrose. Et à leur façon ils essayaient justement de penser à partir de la psychose, de la schizophrénie.  […] Mais, d'une certaine façon, le Séminaire du Sinthome c'est la positivation de L'anti-Œdipe.  (J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 19/01/2005 )

◼️大他者の非存在=アンチオイディプス
エディプス、父の名と隠喩の概念による去勢と抑圧のエディプス。l'Œdipe, de la castration et du refoulement par les concepts de Nom-du-Père et de métaphore(…)(他方、)ドゥルーズとガタリのアンチオイディプス。ラカンはアンチオイディプスを再生利用した[Il recycle L'anti-Œdipe]。(…)だが忘れてはならないのは、アンチオイディプス自体、ラカンの読解だということである[Mais l'anti-Œdipe lui-même, ne l'oublions pas, est une lecture de Lacan]。「大他者は存在しない[L'Autre qui n'existe pas] 」、これがラカンのアンチオイディプスである。(J.-A. MILLER, Le désenchantement de la psychanalyse-15/05/2002)

◼️アンチオイディプスの優れた点と欠陥
パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)

ラカンが「性別化の式」に代表される象徴界の裂け目に現れる現実界(象徴界→現実界)ではなく、基底にあるトラウマ的現実界に対する防衛としての象徴界(現実界→象徴界)とするようになったのは、事実上、アンコールセミネール終盤の1973年5月以降であり、1972年に上梓された『アンチオイディプス』における思考、《精神分析におけるあなた方は、神経症から考えている。そしてドゥルーズ &ガタリの方法は、精神病から・分裂病から考えようとした》に大いに影響を受けているというのがラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレール の捉え方。

そもそも「現実界→象徴界」と捉えないと「人はみな妄想する」はイミフ。

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。 …この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé. […] ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


以下こうも貼り付けておこう。より詳しくは「遠回りの道」にある。

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
すべての神経症的障害(ここでの神経症は通常の精神神経症だけではなく現勢神経症≒ラカンのサントームをも含んでおり、つまり分裂病・自閉症等も含んだ全症状:引用者)の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期のトラウマ体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。

概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかにトラウマは固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、トラウマ的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマStructural Trauma」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る「事故的トラウマAccidental Trauma」である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Beyond Gender, From subject to drive, 2001)