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2020年9月5日土曜日

知性のつぶやき

30歳前後に柄谷行人が『探求』で次のフロイト文を引用しているのを読んだ。それまではせいぜい『夢解釈』を斜め読みしたり、あるいは『症例ドラ』ーーこの「ドラ」は今でも一番好きかもしれないーーを読んだくらいだった。


知性が欲動生活に比べて無力だ[der menschliche Intellekt sei kraftlos im Vergleich zum menschlichen Triebleben]ということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい [die Stimme des Intellekts ist leise]。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めない [aber sie ruht nicht, ehe sie sich Gehör geschafft hat]。しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである [Am Ende, nach unzählig oft wiederholten Abweisungen, findet sie es doch]。
これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、おそらく無限の未来のことというわけではない[Der Primat des Intellekts liegt gewiß in weiter, weiter, aber wahrscheinlich doch nicht in unendlicher Ferne.](フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』第10章1927年)

フロイトはこんなことを言っているのか、と感心し、もう少しフロイトを読んでみようと思ったのだから、私のフロイトは事実上、柄谷による紹介から始まったと言ってもよい。

でもこれはとっても楽観的なフロイトである。《知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、おそらく無限の未来のことというわけではない》だなんて。フローベールが言い放った《進歩とともに、愚かさもまた進歩する!》が実際のところである。少なくも日本言論界から知は殆ど消え失せた。ツイッターに代表されるガラクタ的知の社交場がそれに拍車をかけている。


フロイトは1856年生まれだから、上の1927年の論文は、71歳の時のものである。

1924年には次のように書いた。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズムが生み出され、原マゾヒズムに合流するEr ergibt dann den sekundären Masochismus, der sich zum ursprünglichen hinzuaddiert. (フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

この原マゾヒズム欲動がフロイトにとって究極の欲動である。別に実態としてはほとんど等価な「原ナルシシズム的リビドーursprünglich narzisstischen Libido」という語もあるが。原ナルシシズム欲動とは(究極的には)出生とともに喪われた母なる身体を取り戻す運動である。本当に取り戻してしまえば、母なる大地との融合=死が訪れる。これまた自己破壊である。

いずれにせよ、《知性は欲動生活に比べて無力である》ーー、そればかりが目立つ21世紀のヒト族である。

1933年、77歳のときにに決定的な言明がある。

マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。(…)

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!(

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)






この原マゾヒズムがラカンの享楽である(ラカン自身、セミネール10や11あたりでは原マゾヒズムではなく、上にいくらか触れた原ナルシシズム=享楽を強調した)。

私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
死の欲動は現実界である。不可能としてしか考えれないという限りで。つまりはチラリと鼻先を覗かせるだけであり、思考しえないものである。この不可能と取り組むことは何の希望も構成しない。不可能なものが死であり、この思考しえない死が現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel en tant qu'il ne peut être pensé que comme impossible, c'est-à-dire que chaque fois qu'il montre le bout de son nez, il est impensable.   Aborder à cet impossible ne saurait constituer un espoir. Puisque cet impensable c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel qu'elle ne puisse être pensée. (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


通常、人は自己破壊するのを避けるため他者破壊する。これが人間の欲動生活である。別名、エスの意志。

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)


この際、ここでもやはりこう引用しておかねばならない。

『自我とエス』の研究では(…)自我はエスと超自我に依存し、この両者に対する自我の無力さと不安に陥りがちな傾向[seine Ohnmacht und Angstbereitschaft gegen beide]を暴露した。(…)その後この判定は、精神分析文献に強い反響をよび起こした。多くの声が執拗に、エスに対する自我の弱さ、我々のうちにあるデモーニッシュなものに対する合理性の弱さを強調した[Zahlreiche Stimmen betonen eindringlich die Schwäche des Ichs gegen das Es, des Rationellen gegen das Dämonische in uns]。そしてこれを、精神分析学の「世界観」の土台とみなそうとしている。だが、分析家がこれほど極端な党派にかたよらぬようにするものこそ、抑圧の効能への洞察[Einsicht in die Wirkungsweise der Verdrängung ]ではなかろうか。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

ーーと引用すれば、Verdrängungという語にも触れなければならない。この語は不幸にも英訳で "repression"、邦訳で「抑圧」と訳されてしまったが、「圧する」という垂直的な意味はない。むしろ水平的な「放逐、追放」とするのが正しい。さらにフロイトは抑圧という語を「原抑圧 Urverdrängung」も含めて使っている場合が多い。この原抑圧は「排除 Verwerfung」であり、外に放り投げる、自我に取り入れられずエスのなかに置き残されるという意味をもっている。

しかもフロイトは、上の同じ1926年の論文で、「抑圧 Verdrängung」という語を、1890年代に使った「防衛 Abwehr」に戻したいと言っている。この防衛という語は、ラカン派で「われわれの言説はすべて現実界に対する防衛 tous nos discours sont une défense contre le réel 」、あるいは「欲望は享楽に対する防衛 le désir est défense contre la jouissance」等々と使われる語である。防衛自体、原防衛という語もある。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

ーーこの二文が示しているのは、いままで通常「抑圧」と呼ばれてきたものは後期抑圧に過ぎないということであり、フロイトラカン両者の核心は原抑圧なのである。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…それは原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt (ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

欲動の現実界、これが享楽である。ラカンが「穴としての享楽 la jouissance  comme trou」というとき、フロイト用語では「原抑圧の引力」としての享楽という意味である。

ここで確認の意味で、最初期と最晩年のフロイト文に現れる翻訳という語を見てみよう。

翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ vom 6.12.1896)
抑圧されたものはエスに帰する。(…)自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識)としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen […]  das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5  Schwierigkeiten, 1939年)


ーーこれは抑圧(後期抑圧)ではなく、原抑圧のことを言っているのは明らかである。このエスのなかに置き残されたものが、異者としての身体である。

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者(=異物[異者としての身体Fremdkörper])が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

暗闇とはーーこの当時のフロイトにはエス概念はなく1923年に初めてグロデック=ニーチェに依拠して提出したのだがーーもちろんエスのことである。エスのなかに置き残された異物が、《われわれにとって異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)である。



この異者としての身体が不気味な反復強迫(死の欲動)をもたらす原症状の起源である。

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)


さらにーーいささかくどくなるがーーこうも引用しておこう。

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

ジャック=アラン・ミレールが言っているように、ラカンの享楽(現実界としての享楽)とは事実上、この異者としての身体(かつその反復強迫)のことである(ラカンは「身体は穴corps…C'est un trou」とも言ったが、現実界の定義のひとつは穴=トラウマである)。《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire》 (ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)とは、異者としての身体は反復強迫するということである。

ミレールは、ラカンのリアルな原症状の定義である「身体の出来事 un événement de corps」を「享楽の出来事 un événement de jouissance.」と等置したり(2008)、《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance》(J.-A. MILLER, 2011)としている。

以上、要するに何よりもまず「リアルな欲動の身体」、つまりエスの身体に対して防衛することが、先に掲げた論文での《抑圧の効能への洞察[Einsicht in die Wirkungsweise der Verdrängung ]》における「抑圧」の意味である。このリアルな身体に対する「防衛」とは、フロイトが頻用したより日常語に近い「飼い馴らしBändigung」でもよい。

さらに別の言い方なら、「欲動の昇華Sublimierung der Triebe」である。

われわれの心理機構が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること Libidoverschiebungen 、これによって、われわれの心理機構の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標 Triebziele をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにすることである。この目的のためには、欲動の昇華 Sublimierung der Triebe が役立つ。

一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快感の量を充分に高めることに成功する場合である。…芸術家が制作――すなわち自分の空想の所産の具体化――によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決して真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なものである。…だがこの種の満足は「上品で高級 feiner und höher」なものに思えるという比喩的な説明しかできない。…この種の満足は、粗野な一次的欲動の動き primärer Triebre-gungenを堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)



さていくらか理論的な寄り道が過ぎたかもしれない。ここで言いたいのは防衛はなかなか難しいということである。最近はとくに知性の有無にかかわらず多くの方々がツイッターなどで「エスの身体」を以て、他者破壊を楽しんでおられるように見える。ツイッターとはエスという欲動生活のはけ口として実にスグレタ道具なのだろう。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。(…)私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』)


ここでまた「もっとも」としよう。この記事はふだんのいささか断言的気味のないではない蚊居肢ブログに反して保留が多いのである・・・知とはひょっとして保留しつつ進むことではなかろうか・・・中断された歩み、後戻り、ときに突然の強い調子は必要だ。だが基本は、脚を引きずりながら進むことではなかろうか。ツイッターの最大の欠陥は脚を引き摺れないことである。あれはつねに早足を要求する。

さて「マゾヒズム  /サディズム」(自己破壊/他者破壊)というのは、フロイト用語ではより穏やかヴァージョンもある。そして人はみなこの両欲動の混淆があるというのが、最も基本的な捉え方である。



たとえば融合とは愛のことであり、ほんとうに二者が融合してしまえば、死が訪れる。でもこれは究極的な話であり、通常の健康的マゾヒズムは次の通り。

女性的マゾヒズムの秘密は、被愛妄想である。Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie. (J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)
私は自分を女性たちを惹きつけるとは決して信じていない[je me suis jamais cru irrésistible auprès des dames]…とはいえ、私はカワイイところがあるんじゃないかと信じている[quelque part je crois être adorable.]。
これが私の被愛妄想[mon érotomanie]の基本だ。少なくともラカンが愛の関係において被愛妄想と何かほかのもの(=フェティシズム)とのあいだの選択肢[choisir entre l'érotomanie et autre chose dans le rapport à l'amour]を提示した場で、私はむしろ被愛妄想の側にある[je me situais plutôt du côté érotomaniaque.]…私は次の事実に抵抗するのだ、まったく途方もない数の人々が私を憎んでいる[Il y a un nombre absolument incroyable de gens qui me haïssent]という事実に。これは私の確信を揺るがせない。基本的には、私は自分に言う。何を言ってるかって? こんな具合だ。彼らが私を嫌いなのは、私のことよく知らないだけさ(笑)、と[ils me connaissent pas bien ( rires)]。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, Cours n°4 – 5/12/2007)


フロイトラカン派で「女性的」という語が使われる場合、その多くは生物学的女性とは直接には関係なく「受動的」という意味である。被愛妄想が受動的マゾヒズムなら、さらにその軽いヴァージョンとして「承認されたい欲求」もある。これがみなさんがネット上で「健康的に」楽しんでいることである。

病理的ヴァージョンも掲げておこう。

マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドー はそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)

ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰なアタッチメントを示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (エリック・ロランÉric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)