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2020年9月6日日曜日

シュ・シャオメイの「遠い呼び声の彼方へ」

「知性のつぶやき」で、知のために脚を引き摺らなければならないとしたが、実はこの4日ほどほんとうに脚を引き摺っているのである。最近は気をつけているのだが、ちょっとした仲間とのバーベキューで大好物のウズラの丸焼きが大量に出たので米焼酎とともに10匹ほど食ってしまい度を過ごしてしまった。ウズラだけでなく鴨の肝の串焼きも5本食べたのでこっちのほうがもっと悪だったかもしれない。尿酸値が上がり左膝が腫れ上がった。軽度の痛風である。

私は少年時代、母方の祖父伯父が経営していたウズラ会社の社員旅行で、バス3台だったか4台だったかの多人数だったが、川辺で鮎を生捕りにしたのを大量に食ったのがいまだ至高の美食の記憶として強烈に残存している。ああウズラでなくて新鮮な鮎が食いたい! 

この国ではカフェオレ色した川しかないという不幸がある。祖母の在所近くの、切り立った崖の傍のあの清澄な川がこよなく懐かしい。何て川だったかな、宇連川かな。板敷川かな。忘れたね。

魚というのはほんとうに新鮮なら川魚のほうが海の魚よりも旨い。海魚が男の味なら川魚は女の味である。川魚は劣化が激しいという欠陥があるので獲りたてを喰わなくてはならない。一時間遅くてもダメだ。

脚が痛いとどうしてもベッドに寝転がっている時間が多くなる。こういったときはバッハの渋い曲がいい。究極の渋さは「フーガの技法」である。これこそ鮎の塩焼の味である。

シュ・シャオメイ(朱晓玫)については、以前にも触れたが実にいい。21世紀になってこんな人とまだ出会えるとは! 彼女はゴールドベルグや平均律、組曲などもやっているが、「フーガの技法」に特権的地位を与えているんじゃないだろうか。愛して愛してたまらないんじゃないだろうか。

最近は9曲目のCanon alla Decimaに最も魅了される。遠くからやってくるように始まり、そのあと暗闇に蠢く幼虫のコロコロとした音と高音部の歌が絡まり合い、上下が転倒しつつまた戻るということが繰り返され進んでゆく。それが実に鮮明にきこえる。


■BWV 1080_ 9. Canon alla Decima




もちろん最後のほうの13曲、14曲も目をみはり口をあけながらきくしかない。

■Contrapunctus 13 inversus



彼女をきいていると、グールドでさえカッコつけすぎ奇を衒いすぎているようにきこえてくる、→フーガの技法 13 Contrapunctus 11 -a4、1967Glenn Gould - Radio Broadcasts of 1956 & 1967 RARE」。

このシャオメイ効果は脚を引き摺っているせいなんだろうか。

 ■Contrapunctus 14






弦楽四重奏ならこの今、Modern String Quartetがお気に入りだ。裸のバッハ、エキスのバッハ。彼らには巧みすぎる弦楽奏者たちの歌いすぎた音のイヤミがない。とくにCanon in Hypodiatesseron(Canon per augmentationem in contrario motu)にこの今とりわけ惹きつけられる。この彼方への捧げ物。これに比べたらルービンシュタインがこよなく愛したシューベルトの「天国への入り口」は俗っぽすぎる。ルービンシュタインはもともと下品な趣味をもっている、とてつもない女好きからくるあの女をたぶらかす甘美な歌いぶり。

芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的なもののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。…

わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう![verleumden wir die Melodie!]  美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない![Nichts ist gefährlicher als eine schöne Melodie! ] それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない![Nichts verdirbt sicherer den Geschmack! ](ニーチェ『ヴァーグナーの場合』トリノ書簡、1888年)


何の話だったか。MSQの話である。Modern String Quartetはジャズ、デューク・エリントンもやる。ところでデューク・エリントンはあれはジャズなんだろうか?

誰もが模倣できない個の世界 ーデューク・エリントン

個人的なことだが、私が生まれた一九三〇年に、デューク・エリントンの《Mood Indigo》が生まれている。

 エリントンは、今世紀の最も偉大な音楽家のひとりに数えられていい存在だが、ジャズという音楽への偏見が現在もかなりそれを妨げている。だが、彼の音楽家としての天才を証すのは容易であり、注意深い耳の所有者であれば、その音楽が他の誰からも際立ってオリジナルなものであることが理解できる。その旋律線(メロディーライン)とそれを彫琢して行く和声進行(コード・サクセッション)。そして、その全体が彼の独自(ユニーク)な楽器法(オーケストレーション)によって彩色される。そこには他の誰もが模倣できないような輝かしい個の世界が創造されている。ともすると近代管弦楽法が、単に物理的な量によって規定され、自由さを喪いがちであるとき、エリントンのオーケストラの響きは、多数の異なる質が共存し織りなして行く有機的(オルガニック)な時間空間であり、私たちがそこから学ばなければならないものは大きい。(武満徹『遠い呼び声の彼方へ』)

とはいえエリントンはこの今は惹かれない。肝腎なのは「遠い呼び声の彼方へ」である。武満徹はこういったこよなく美しい短い言葉を作り出すのがうますぎる。