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2020年9月30日水曜日

世界はデルタ





ベケット25歳の事実上の処女作『プルースト』(1931年)はーーそれ以前に"Dante... Bruno. Vico.. Joyce"等の短いエッセイがあるらしいがーー、「泥 fango」で始まり、「死者 defunctus」で終わるのだな。

苦悩と倦怠、人生はそれ以外の何ものでもない。そして世界は泥だ。[Amaro e noia/ la vita, altro mai nulla; e fango è il mondo](レオパルディLEOPARDI「自分自身に A se stesso」1835年)

人生は果たさるべき課役だ。この意味で「死者 defunctus」(ラテン語:人生の課役を果たしてあの世へ行った人)は素晴らしい表現だ。[Das Leben ist ein Pensum zum Arbeiten: in diesem Sinne ist defunctus ein schöner Ausdruck.](ショーペンハウアー Schopenhauer『余録と補遺 Parerga und Paralipomena』1851年)


世界は泥だってのは
世界はデルタってことだろうな、

デルタの課役をしっかり果たしておかないと
いつまでたっても死者になれないよ

蚊居肢散人はメコンデルタに深い深い思い出を持っている
二つのデルタに遭遇しカラカラになってしまったのである
あれこそ真の課役であった。


さて何の話だったか・・・
ベケット=プルーストである。






comment a-t-on le courage de souhaiter vivre, comment peut- on faire un mouvement pour se préserver de la mort, dans un monde où l'amour n'est provoqué que par le mensonge et consiste seulement dans notre besoin de voir nos souffrances apaisées par l'être qui nous a fait souffrir ?   (Proust, La prisonnière (Première partie) p183, La Bibliothèque électronique du Québec )

《人はどうして生きたいとねがう勇気がもてようか、どうして死なないための力をふるいたたせることができようか? 相手がつくうそによってしか愛がかきたてられない世界、われわれを苦しめた相手にその苦しみを鎮めてもらいたいという欲求のなかにしか愛が存在しない世界、そういう世界のなかで。》(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳P158からだが、訳文が倒置されているので原文通りに変更した)

たしかに文学全体を見渡しても、孤独と、ひとびとが愛と呼んでいる責め合いとのあの砂漠、それをあのように悪魔的な悪練さをもって持ち出し展開させた研究はない。これを読んだあとでは、「アドルフ』も、せっかちな滴り、唾液分泌過度の疑似叙事詩、涙を流すカンプルメール夫人〔・・・〕に過ぎない。(ベケット『プルースト』)


2019年8月26日月曜日

奈落の母



貪り喰う空虚。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。Incontinent the void. The zenith. Evening again. When not night it will be evening. Death again of deathless day. On one hand embers. On the other ashes. Day without end won and lost. Unseen. ((サミュエル・ベケット Samuel Beckett『見ちがい言いちがいIll Seen Ill Said』)




で、おっかさん亡くなってから具合はどうなんだい?

死んだほうがもっとこわいですよ

こわいってのは?

毎夜、こんなぐあいなんですよ


(ベケット、母から子宮へ Samuel Beckett: From the Mother to the Womb.)

(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


ーーそうなのか、おれはまだ幸運なのかもな





批評家やら文学者ってのはありゃだめだね、おれたちの作品を、Rien[無]、vide[空虚]、creux[空洞]、vacuole[空胞]、abîme[深淵]、béance[裂孔]、coupure[切れ目]、fente[裂け目]、refente[裂割]、faille[断層]、trou[穴]やらとはいっておきながら、そこには女陰の奈落 abîme de l'organe fémininがあるってのに触れないんだからな、






風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器 Genitale der Mutter である。事実「すでに一度そこにいたことがある dort schon einmal war」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだFinger ins Genitale der Schlafenden ことがあった。(フロイト『夢解釈』1900年)




ここまでしめしたってわかんねえんだな、あの連中は。





ジュネぐらいだよ、ずばっとみやぶったのは。




美には傷 blessure 以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

アレそのものはひみつにしといてくれっていっておいたけどな




そしたら風がとおりぬけるようにわらってたよ、やつもふたりの母親もって苦労してるからな

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)




しあわせもんなんですよ、あの文学者連中ってのは。

そうだな、こっそり嗤っておけばいいんだろうな




この「見えないオブジェ L'Objet invisible」⋯⋯⋯この空虚・この不在は、われわれ各人のなかにある何ものかに他ならない il n'est rien d'autre que ce creux, cette absence qui est en chacun de nous。以前の情景でも今の情景でもない。私の過去でも私の現在でもない。そうではなく、この逃れ去るものは、私が抱え続け・私を抱えて続けている空虚である。(ポンタリス Jean-Bertrand Pontalis,『夜の境界 En marge des nuits』2010年)


でもおっかさんてのはな、おれんとこはいつまでも生きていそうだからな





どうなるんだろうな、このまま続くと?





まだいいですよ、ボクすみたいに毎夜のパクパクはないのだから

とすればあれもやっぱりアレのことなのか




じゃあこうしておこうよ、暗闇に蠢く母の徴としてな。






美は現実界に対する最後の防衛である。la beauté est la défense dernière contre le réel.(ミレール Jacques-Alain Miller L'inconscient et le corps parlant、2014)

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance 1999)

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、…原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? » 2014セミネール)



2018年6月19日火曜日

ベケットとあなたを貪り喰う空虚

ジジェクの2017年の著作は"Incontinence of the Void" (the title is inspired by a sentence in Samuel Beckett's late masterpiece Ill Seen Ill Said)という題名だが、このベケットの『見ちがい言いちがい Ill Seen Ill Said』に触発された表現、"Incontinence of the Void" は、そのままの形ではベケットのなかになく、次のようにある。

Incontinent the void. The zenith. Evening again. When not night it will be evening. Death again of deathless day. On one hand embers. On the other ashes. Day without end won and lost. Unseen. (Samuel Beckett, Ill Seen Ill Said)

ーーこの文は、次のように訳されている(宇野氏の訳は仏版「Mal Vu Mal Dit」からの訳だろうが。ーーべケットの多くの書と同じく、この作品も仏語で書いた後、自ら英語版を出している)。 

いきなり広がる空虚。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。(サミュエル・ベケット『見ちがい言いちがい』宇野邦一訳、書肆山田、1991年)

ところで、Incontinence について英語版のwikiにはこうある。

Incontinence (philosophy) Incontinence ("a want of continence or self-restraint") is often used by philosophers to translate the Greek term Akrasia (ἀκρασία). Used to refer to a lacking in moderation or self-control, especially related to sexual desire, incontinence may also be called wantonness.

これに依拠すれば、"Incontinence of the Void" は、空虚の勝手気まま、空虚のみだらさ、空虚の貪婪さ等と訳せるか? 

ベケットの『見ちがい言いちがい』には、空虚をめぐってこうもある。

最後の秒の最初。すべてを貪ってしまうために、まだ十分残っているとして。一秒も惜しんで貪るように。空と大地そしてあらゆるごたごた。(…)いや。もう一秒。一秒だけ。この空虚を吸いこむ間だけ。幸福を知る。

First last moment. Grant only enough remain to devour all. Moment by glutton moment. Sky earth the whole kit and boodle. … No. One moment more. One last. Grace to breathe that void. Know happiness. (ベケット『見ちがい言いちがい』)

とすれば、ベケット 自身の表現 Incontinent the voidとは、「(あなたを)貪り喰う空虚」とも意訳できるかも知れない。 あるいは引力としての空虚と。

フロイト用語では引力とは、原抑圧にかかわる。

そしてラカンにとっては、原抑圧は穴である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

さらに穴とはブラックホールとしての引力である。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

ーーS(Ⱥ)とは、大他者のなかの穴 trou dans l'Autre のシニフィアンのこと。

すると(わたくしの偏った観点からは)、これは母なる空虚である。

ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』lettres 1, 5, 8)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、1993, La logique de la cure)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, 1995, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL)

ーー《女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。》(古井由吉「すばる」2015年9月号)

母とは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。…あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

 あるいは母なるブラックホールである。 

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

いやいやこれでは、過剰解釈のそしりをまぬがれないのは知っている。ベケットのような至高の作家を精神分析的に解読するなどと!

これら⋯を精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)

とはいえ、『見ちがい言いちがい』における老婦人は、パーキンソン病との闘病生活に明け暮れたベケットの母の影が落ちているに相違ない。

寝床から、彼女には金星の昇るのが見える。あいかわらず晴れた空に、太陽を背にして金星の昇るのが寝床から見える。そのとき彼女はこの生命の源を恨む。あいかわらず。

From where she lies she sees Venus rise. On. From where she lies when the skies are clear she sees Venus rise followed by the sun. Then she rails at the source of all life. On. (ベケット『見ちがい言いちがい』)

 『見ちがい言いちがい』は端的にそうだが、別の作品においても、Murphy, Watt, Malone, Molloy, Mahood, Worm 等、最もシンプルに言ってしまえば、彼は原母と子宮の作家、すなわち穴の作家でありうる(参照:Samuel Beckett: From the Mother to the Womb)。 

私は母の寝室にいる。今ではそこで生活しているのは私だ。どんなふうにしてここまでやってきたかわからない。救急車かもしれない、なにか乗り物で来たには違いない。だれかが助けてくれた。一人では来られなかったろう。(サミュエル・ベケット『モロイ』)

 『見ちがい言いちがい』の紹介文には、《まなざしもことばも錯誤としてしか機能しないという視座から、錯誤の総和であるしかない生を見つめ、死という終結に向う待機時間としての極限的な生を語る作品》とあるが、これはまさに《人はみな妄想する》である。

 私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009) 

そして、 

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 )

トラウマとは、ラカン用語では穴と等価である。 

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋め合わせる combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )

たとえば人はまず、次のベケットの映像作品『夜と夢』の右上にあらわれる穴と女はなにかと問えばいいのである。

◆Samuel Beckett ~ Nacht und Träume




わたくしが出会ったなかで最も美しいと感じるシューベルトの『夜と夢』も掲げておこう。

◆Barbara Hendricks  Schubert "Nacht und Träume"




⋯⋯⋯⋯



2016年2月7日日曜日

ベケットの非私とフロイトの否定 [Die Mutter ist es nicht ]

It is not mine. I have none: I have no voice and must speak. that is all I know. It's round that I must revolve, of that I must speak - with this voice that is not mine. bul can only be mine, since there is no one but me. (Or if there are others, to whom it might belong, they haw never come near me.) (Beckett, The Unnamable、ベケット『名づけえぬもの』)

…………

おれはいま母の部屋にいる。なぜここにいるのか。おれはこんなところに来たくなかった。 誰かが連れてきた。が、誰だったか思いだせない。ひとりでここに来るはずはない。そうだ、誰かが無理やりに連れてきた。おれじゃない。おれは母の部屋に来たくない。隙間風が吹いてる。なぜ風が吹きこむのか。戸は閉まっている。建てつけが悪いせいか。いつからそうなったのか。北向きの暗い部屋だ。大きな三面鏡がある。昔のままだ。鏡台の前でヤリたいという女がいた。遊びにきてよ、旦那が休日出勤だから、という。料理の腕前はなかなかだ。蛸のサラダ。パテ。サフランライス。白ワインとチーズはおれの持参。ベランダで、とも言った。電話がかかってきた(当時は据置き電話だ)。が、体の向きをかえ、ふたたびおれに尻を差しだした。その格好で電話先の友だちとかすかに笑いながら話している。呻り声はもうでない。せいぜいくぐもった声だ。ときおり吐息を洩らすだけ。優しく淫らな声。あの女は旦那に退屈してた。奈良の女子大出のインテリ女だ。実に女たちというのはなんでもやりかねない。おれは東京の国立女子大の女子寮で数日過ごしたことがある。ドアをあけると部屋の左右に二段ベッドがふたつ。四隅に机が四つという部屋。盆休みのさなかで、女以外はほとんど誰もいない。おいで、大丈夫だから。門限はすぎ、門扉は閉まっている。塀をよじのぼって飛びおり寮棟めがけて走る。サッカーができそうなくらいの広さの前庭。二段ベットの上でヤッたのははじめてだ。かなり揺れる。女臭い部屋だ。どうも女は臭い。恥垢がにおった。母の膝で耳かきをしてもらったときだ。この女も舐めたらその臭いがした。いや、味がした。母のを舐めたことはない。でも同じ臭いでびっくりした。若いころの母はひどく美しかった。あのころの母より美人はそういない。でもあの若い母とヤリたいわけじゃない。樹がざわざわしている。上のほうからだ。なんの樹というのだろう。実家の母の部屋の外には大きな樹木はなかった。

母が寝込んでいた祖父の屋敷の部屋。南向きなのに薄暗かった。屋根の庇が深く、その部屋の前の庭には大きな樟の木があった。風が吹くとザワザワ鳴った。樟は美しい樹だ。樟だけじゃない。おれは大きな樹が好きだ。それに並木道がひどく好きだ。樹々に抱かれている気分になる。おれは母に抱かれた記憶がない。いやそんなことはない。風邪をひくと、母が部屋に飲み物をもってきた。林檎の絞り汁だ。それから母は蒲団に入ってしばらく抱いてくれた。母の長い病が治ってからだ。いつあの病は治ったのだろう。その記憶もない。おれには考えたくない記憶がある。あの祖父の古い屋敷が好きだった。どの柱も黒く光っていた。渡り廊下があちこちにあった。便所の戸を開けてさえ廊下があった。あの屋敷におれの秘密があるにきまっている。秘密? どんな秘密だというのだ。

おれは母が死んでも悲しくなかった。ほっとしたといえばいいすぎだ。女が、てっきりマザコンだと思っていたのに驚いたわ、と言った。母は最期のころ、小さくなった躰を車の後部席でさらにちぢこめて、こうやってアンタに遊びに連れていってもらいたかったわ、とボソッと言った。助手席の父が、もうひとふんばり、と空しく言った。あの赤い中古のスポーツカーはよい買物だった。自動車会社の技師のドイツから帰ってきたばかりの父の弟は、あのエンジンはひそかな自信作だった、と言った。最期の一年ほどは、京都から故郷の町へ二百キロの道を毎週帰郷した。実によいエンジンだった。その後、ホンダとサーブに乗ったが、あのトヨタには全然かなわない。

母の葬式後、夢をみなくなった。田舎の一本道をひとりで遠くまで歩く夢。向こうには鎮守の森がある。そこが目的地だ。だがひどく遠い。冷や汗がでて目醒めた。何度もくり返してみた夢。今でも遠くまで続く一本道をみると寒いぼが立つ。愛するのは大きな樹に囲まれた並木道だ。あの樟の木のように、頭上でザワザワしてくれたらもっといい。それと海に向かう急坂。自転車ででこぼこ道を駆け下りると、頭の斜め上に、鳩たちが歩む海が浮かぶ。今ではこの道は廃道となっている。何人もが自転車のハンドルをとられ、傍の藪に突っ込み転がり落ちる、という事故があった。ヴァレリーのあの詩を読んだのは、この十六歳の伊古部の海の経験のあとだ。鳩たちは伊古部の海の東にある赤羽根漁港の漁船だった。《鳩歩む この静かな屋根は/松と墓の間に脈打って /真昼の海は正に焔。 /海、常にあらたまる海! /一筋の思ひの後のこの報ひ、 /神々の静けさへの長い眺め 》

…………

◆Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic(Lacan and Philosophy: The New Generation Lorenzo Chiesa, editor、2014, PDF)より。

…………

分節化ーー代数的な(アルジェブラ的な)分節化という意味だがねーー、その見せかけ semblance の分節化ーーそれは、文字だけを伴うものだーー、そしてその効果。これが唯一の装置だよ、その装置を用いてのみ私が現実界とは何かを示しうる。現実界とは、この見せかけのなかに、穴を開けるfait trou もの、あるいはその穴を開けるのを構成するものだ。科学的言説としての分節化された見せかけに穴を穿つことだ。科学的言説は進んでいくんだ、それが見せかけであるかどうかさえ心配せずにだ。問題となっているのは、単にネットワーク、ネット(網)、格子だ、…それが、正しい場所に正しい穴が現れるようにする。どんなほかの参照項もない、この演繹 deductions が不可能に到る以外のものは。この不可能が現実界だ。物理学において、我々は唯一目指そうとする、論証的装置を用いて、現実界的である何かに。まさにその厳密さをもって、一貫性の限界に遭遇するわけだ。しかし、我々に関心を与えるものは、真理の領野だ。(Le séminaire, livre XVIII. D'un discours qui ne serait pas du semblant,)

«Réel qui fait trou dans le discours scientific » (Lacan,séminaire, livre XVIII). →« Réel qui fait trou dans le symbolique »


【限界としての現実界】ーー「波打ち際 littorale」としての現実界

この「精神分析的実在論」の決定的な核心は、現実界は、存在の実体ではなく、正確な意味で、その限界であることだ。すなわち、現実界とは、伝統的存在論が「存在としての(qua)存在」を語りうるために切り捨てcut off なければならなかったものである。我々は唯一「存在としての存在」に到る、それから何かを取り去ることによって。そして、この何かがまさに「穴」なのだ。それは、存在として十全に構成されるために欠如しているもののことだ。現実界の領野は、存在自体内部の合間にある。その理由で、非在が「存在としての存在」である。非在が唯一、存しうるのは、それがある以外に何かがあることによって、である。人は、もちろん問いただすことができる、そこにないものを切り捨てて何の問題があるのだ、と。だが、とても重要なのだ、切り捨てたとき、それが何かになるという理由だけでなく、その何かになったものが、精神分析学のまさに対象であるという理由で。


【純シニフィアン】ーー「純シニフィアンの物質性」

(……)われわれは言うことができる、現実界の次元を構成する空間が歪曲することは、原因かつ結果をもっている、と。その原因とは、純シニフィアンの出現であり、結果とは、新しい種類の対象の出現である。しかし、これまた次のようにも言いうる、純シニフィアンのようなものはない、と。というのは、裂け目が純粋で明瞭になればなるほど、触知でき縮減不能の--あるいはシンプルな現実界の--対象を生み出すから。


【フロイトの否定 [Die Mutter ist es nicht ]】

これは、たとえば、Verneinung(否定)という精神分析の概念の基本的教えである。この「否定」という題をもつフロイトの短いエッセイは、最も興味深く複雑なもののひとつだ。それは、とりわけ、ひとつのシニフィアンを扱っている。「いいえ no」、あるいは「否定」である。そしてもし、フロイトがかつて言ったと報告されているように「時には、葉巻はただの葉巻だよ」であるなら、このエッセイの要点は、「いいえ」は決してただの「いいえ」ではない、ということだ。そして、その語の使用が「道具的」であればあるほど(すなわち、純シニフィアンとして機能すればするほど)、何かほかのものがそこに貼りつくようになりうる。

フロイトの最も有名な例はもちろんこれだ、「夢のなかのこの人物は誰かとおっしゃいますが、母ではありません [Die Mutter ist es nicht ]」。フロイトはつけ加える、どの場合でも、質問が解決されれば、それが実に母であることが確認できる、と。だが、フロイトの議論をさらに追っていくと、一段ごとに明らかになってくることは、この否定によって導入後されたものは、「それは私の母です/それは私の母ではありません」の二項択一以外の何かほかのものだということだ。


【「検閲 censorship 」としての無意識】


こういわけで、一歩一歩進もう。彼の夢のなかでのある人物が誰を演じているかを尋ねられることはないままで、患者は、母という言葉に向かって突き進み、自発的にその言葉を口に出す。否定を伴いながら、である。あたかもその語を言わなければならなかったかのようであり、しかし、それと同時に、言うことができないかのようだ。否応なしであると同時に不可能なのだ。結果は、言葉は否定されたものとして口に出る。抑圧は、意識的に話されたものとともに共存する。

ここで最初に避けねばならない間違いは、この人物は彼の夢のなかで実際に何を見たかという観点、そして、意識的な検閲 censorship のせいで、分析家に嘘を吐いたという観点からこれを読むことだ。というのはーーこれは否定 Verneinung を理解するために決定的だけでなく、フロイトの無意識自体を理解するためにも決定的であるーー、この事例における無意識というのは、まずなりよりも「検閲」のことであり、たんに「母」というその対象ではないから。

ここでは、無意識は歪曲自体(否定)にしがみついている。そして、主体がおそらくほんとうに夢のなかで見たもののなかには隠されていない。別の人物、知っていたりか知らなかったりする人物が実際に夢のなかに現れたということは充分にありうる。しかし、精神分析にとって関心がある無意識の物語とは、夢の報告において起こった、この「私の母ではない」に始まる。


【消去しえない抑圧を生み出した裂け目、亀裂の構造】--原抑圧

しかし、事態はいっそう興味深くなる。というのは、フロイトが続けてこう言うからだ、分析において、我々がこの人物から「いいえ not」を引っ込め、抑圧されたもの(その内容)を承認させてさえ、「抑圧的な過程自体は、これによっては、未だ取り除かれていない」。抑圧、症状は居残るのだ、被分析者が抑圧されたものに意識的になって後にも。これは次のようにもまた定式化できる。すなわち、我々は(抑圧された)内容を受け容れ、それを消去する。しかし、抑圧を生み出した裂け目、亀裂の構造を消去しえない、と。我々はまたこうも主張できる、患者が言いたかったことは、まさに彼が言ったことだ、と。すなわち、それは、母以外の他の人物でもなければ母でもない。そうではなく、「非-母 not-mother」、あるいは「母に非ず mother-not」だ、と。

《内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が全てではない not all ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。》(ジジェク,2012)


ジュパンチッチの文は、以下、次のように続く。

エルンスト・ルビッチの『ニノチカ』からの秀逸なジョークが、「母に非ず mother-not」という単独な対象 singular object のよりよい把握のための手助けを、ここでしてくれるかもしれない。男がレストランに入って、ウエイターに言う、「クリームなしのコーヒーをください」と。すると、ウエイターは応じる、「すいません、クリームを切らしておりまして。ミルクなしではいかがですか?」

これはジジェクのLESS THAN NOTHINGに、ジュパンチッチ= ルビッチを引用してのとても長い説明がある。いまはそれには触れない。

…………

今日は旧正月の大晦日だ。妻や息子たちがざわざわしている。階下からだ。頭上ではない。樟の木のざわざわとはちがう。だがこのざわざわもまたいい。






2015年7月6日月曜日

現代日本の「自由のアマゾンヌ」たち




いい女がそろってるねえ
デモというのは、どうして女たちのほうが絵になるんだろ




おい、若い男ども、写真を撮りにいくだけでもいいから参加しろ!




総理がSEALDsを非常に気にしている。これまでネットの意見で若い世代に憲法改正を望む声が強いことから、総理は自分の路線が若者に支持されていると考えていた。選挙権の年齢引き下げも自民党に有利に働くとの読みがあった。

 しかし、渋谷のデモに多くの若者が参加するなど、予想に反する動きが広がっている。このままでは70年安保の新宿フォークゲリラ、神田カルチェ・ラタンのように、今後は渋谷が若者の反対運動拠点になりかねないと心配している。(裸の首相 裸だと指摘する者はメディアでも子供でも黙らす)

現代日本版「自由のアマゾンヌ」に魅了されてヘボ男どももーーシツレイ!--参加すれば、こうなるのも夢じゃないぞ。





‏@bcxxx 7月3日この連ツイ、さっき途中で電池が切れてしまった。なぜこれを書いたかと言うと、TLで「15日に強行採決だとするとあと金曜日は2回しかない!」みたいな悲痛な声をいくつか見たからです。…全然違う。むしろ衆院で強行採決されてからが本番です。

衆院で強行採決をすれば、安倍の支持率は猛烈に低下する。そこからさらに参院で「みなし否決」までの60日を、安倍政権は国民の猛反対に晒されながら過ごすことになる。与野党共に政界にも様々な軋みが出てくる。政界地図に激変が起きるかも知れない。

安倍はこの夏を、民衆の怒りの炎に焼かれて火だるまになりながら進む道を選んだわけです。その間に、恐らくよほどのことがなければ安倍は総裁に無投票再選されるでしょう。そこまではもうレールが敷かれている。まずゆらがない。しかしその後がいよいよ安倍降ろしの本番です。

強行採決はガソリンです。安倍が頭からガソリンをかぶってくれる。火を点けて煽りまくり、焼き尽くすのは国民です。だから本当に衆院の強行採決は過程でしかない。むしろスタートラインでさえある。そして安保法制が最終的に可決されても、それもまたスタートラインであり、プロセスの途中に過ぎない。

学生さんたちは、他の世代が決して経験しなかった、凄い夏休みを経験することになる。一生の思い出に残る、日本の歴史の1ページに残る夏休みです。思う存分青春を爆発させてください。勤労者のおじさんたちも頑張って頭数になるよ。やってやろう!

それともお前らこっち系か?

@hazuma: 安倍政権にNOはいいけれど、というかぼくもそりゃNOなんだけど、それでつぎだれ/どの政党に政権任すの?という具体的な名前がないままに運動しても、それはやっぱり無責任のそしりは免れないわけでね。。(東浩紀)

ようするにデモに参加しないことの言い訳だな、これは。

※「野田やめろデモ」に向けての声明 (柄谷行人起草)

 野田が辞めたら、もっとひどい者が出てくる、自民党に戻ってしまう、という意見があります。しかし、そのときは、もっと反対すればよい。また、前任者が大衆的な反対運動で辞めた場合、新任者は同じことをやれないでしょう。それに対して、われわれが現政権をバカにするだけで、何もしないでいるなら、結局、マスメディアにおいて大衆的な人気のあるデマゴーグに政権を与えることになる。それこそ最悪です。




 Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだったからって、それがどうしたのだ。もう一度やって、もう一度ダメになればいいのだ。以前よりマシならば、それでいいのだ。(ベケット)

昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」)



ーー「エジプト革命」後4年経ってどんな具合になっているかだって? 
では、あの「奇跡」はなかったほうがよかったとでもいうのだろうか。

季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。(……)

「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、16の時にはもう存在していなかったパレスチナを。(ジャン・ジュネ『シャティーラの4時間』)


2015年1月30日金曜日

沈黙のなかにいてはわからない/続けなくちゃいけない



You must go on.

I can't go on.

You must go on.

I'll go on. You must say words, as long as there are any- until they find me, until they say me. (Strange pain, strange Sin!) You must go on. perhaps it's done already. Perhaps they have said me already. Perhaps they have carried me to the threshold of my story, before the door that opens on my story. (That would surprise me, if it opens.)

it will be I? it will be the silence, where I am? I don' know, I'll never know: in the silence you don' know.

You must go on.

I can't go on.

I'll go on.

ーーSamuel Beckett, The Unnamable


(After the Genocide. Tuol Sleng Torture Camp, Phnom Penh)

続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けなくちゃいけない、

だから続けよう、言葉をいわなくちゃいけない、言葉があるかぎりは言わなくちゃいけない、彼らがおれを見つけるまで、彼らがおれのことを言い出すまで、不思議な刑罰だな、不思議な過ちだな、続けなくちゃいけない、ひょっとしてもうすんだのかな、ひょっとして彼らはもうおれのことをいっちまったのかな、ひょっとして彼らはおれをおれの物語の入り口まで運んでくれたのかな、扉の前まで、扉をあければおれの物語、だとすれば驚きだな、もし扉が開いたら、

そうしたらそれはおれなんだ、沈黙が来るんだ、その場ですぐに、わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、

続けなくちゃいけない、

おれには続けられない、

続けよう。

ーーベケット『名づけえぬもの』 安藤元雄訳 白水社


(A.ケルテス、エルネスト、パリ、1931)

1937年、ケルテスがアメリカ合衆国にやって来たとき、「ライフ」誌の編集者たちは、彼の映像が《あまりにも語りすぎる》からと言って、彼の写真を受け入れなかった。彼の映像は考え込ませ、ある意味をーー字義どおりの意味とはまた別の意味を示唆したのである。要するに、「写真」が秩序壊乱的なものとなるのは、恐れさせ、動転させ、さらには烙印を押すときではなく、それが考え込むときなのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


(A.ケルテス;子犬、パリ、1928)

「写真」は注意を知覚から切り離し、知覚をともわない注意はありえないのに、ただ注意だけを向けるかのようである。それは道理に反することだが、ノエマのないノエシス、思考内容のない思考作用、標的のない照準である。しかし、ある種の雰囲気がもつきわめて稀な特質を生み出すのは、この人騒がせな視線の動きである。ここに逆説があるのだ。知的なことはすこしも考えず、ただ黒いベークライトの塊を見つめているだけなのに、どうして知的な雰囲気をもつことができるのか? それはまなざしが、見ることをやめ、内心のある何かに注意を向けているように思われるからである。生まれたばかりの子犬を抱いて、ほほずりしているこの貧しい少年(ケルテス 1928年)は、悲しみと愛着と恐れの入り混じった目でカメラを見つめている。なんと不憫で切なくて思慮深い様子であろう! だが実は彼は何も見ていないのだ。彼のまなざしは愛と恐れを心のうちに引きとめているのである。写真の「まなざし」とは、そういうものなのである。(同上 バルト)



Unfortunately I am afraid (as always) of going on. For to go on means going from here, means finding me, losing me, vanishing and beginning again (a stranger first, then little by little the same as always) in another place, where I shall say I have always been, of which I shall know nothing ( being incapable of seeing, moving, thinking, speaking) but of which little by little, in spite of these handicaps, I shall begin to know something, just enough for it to turn out to be the same place as always, the same which seems made for me and does not want me, which I seem to want and do not want (take your choice) which spews me out or swallows me up ( I’ll never know) which is perhaps merely the inside of my distant skull where once I wandered, now am fixed, lost for tininess (or straining against the walls) with my head, my hands, my feet, my back, and ever murmuring my old stories ( my old story) as if it were the first time.

― Samuel Beckett, The Unnamable





Yes, in my life, since we must call it so, there were three things, the inability to speak, the inability to be silent, and solitude, that’s what I’ve had to make the best of.
The tears stream down my cheeks from my unblinking eyes. What makes me weep so? There is nothing saddening here. Perhaps it is liquefied brain.





言葉では書けないことがあるというのが
言葉に組みこまれた最大の教えだった
遠く離れた場所での何かに経験をつけくわえようとするが
その距離と無知は絶対に変わらない
言葉が言葉にすべきでないことがあるというのが
言葉のもっともつつましい誓いだった
雨滴は太陽に挑むことができず
砂粒は風にけっして勝てない
そのように言葉はひとしずくの雨、ひとつぶの砂として
蒸発を受け入れ、制御できない飛行を甘受する
それでもこの雨滴に喉をうるおし
この微細な砂粒にしがみつく虫がいるだろう
われわれは虫だ、われわれはあまりに小さい
すべてのわれわれが虫だ、あまりにはかない
この小さな体と感覚器の限界に捉われながら
世界を語らず、ただ世界の光と雨に打たれて生きている


      ーー管啓次郎『島の水、島の火 Agend’Ars2』から






大規模な交響楽的クレッシェンドは、ロマン主義的なルバート、すなわち緩急の自由なテンポの扱いと同様に、作品内の有機的な形態の多様性と結びついている。特に後者は――これは楽譜への忠実さをどんなに口先だけで信条としていても、やはり現代の真の病いであり、劇場に発するものである――バッハでは厳しく徹底的に排除されなければならない。私が『マタイ受難曲』であえて行なっている唯一の例外が、「まことに、この人こそ神の子であった」という言葉にともなう大規模なクレッシェンドとデクレッシェンドである。私はこれを様式の上で弁護するつもりはないが、歌詞の内容を見事に表現するように思われ、それを断念する気になれない。これは私がカール・シュトラウベから受け継いだものである。(フルトヴェングラー)







I'm all these words, all these strangers, this dust of words, with no ground for their settling, no sky for their dispersing, coming together to say, fleeing one another to say, that I am they, all of them, those that merge, those that part, those that never meet, and nothing else, yes, something else, that I'm something quite different, a quite different thing, a wordless thing in an empty place, a hard shut dry cold black place, where nothing stirs, nothing speaks, and that I listen, and that I seek, like a caged beast born of caged beasts born of caged beasts born of caged beasts born in a cage and dead in a cage, born and then dead, born in a cage and then dead in a cage, in a word like a beast, in one of their words, like such a beast, and that I seek, like such a beast, with my little strength, such a beast, with nothing of its species left but fear and fury, no, the fury is past, nothing but fear, nothing of all its due but fear centupled, fear of its shadow, no, blind from birth, of sound then, if you like, we'll have that, one must have something, it's a pity, but there it is, fear of sound, fear of sounds, the sounds of beasts, the sounds of men, sounds in the daytime and sounds at night, that's enough, fear of sounds all sounds, more or less, more or less fear, all sounds, there's only one, continuous, day and night, what is it, it's steps coming and going, it's voices speaking for a moment, it's bodies groping their way, it's the air, it's things, it's the air among the things, that's enough, that I seek, like it, no, not like it, like me, in my own way, what am I saying, after my fashion, that I seek, what do I seek now, what it is, it must be that, it can only be that, what it is, what it can be, what what can be, what I seek, no, what I hear, I hear them, now it comes back to me, they say I seek what it is I hear, I hear them, now it comes back to me, what it can possibly be, and where it can possibly come from, since all is silent here, and the walls thick, and how I manage, without feeling an ear on me, or a head, or a body, or a soul, how I manage, to do what, how I manage, it's not clear, dear dear, you say it's not clear, something is wanting to make it clear, I'll seek, what is wanting, to make everything clear, I'm always seeking something, it's tiring in the end, and it's only the beginning.