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2018年6月19日火曜日

ベケットとあなたを貪り喰う空虚

ジジェクの2017年の著作は"Incontinence of the Void" (the title is inspired by a sentence in Samuel Beckett's late masterpiece Ill Seen Ill Said)という題名だが、このベケットの『見ちがい言いちがい Ill Seen Ill Said』に触発された表現、"Incontinence of the Void" は、そのままの形ではベケットのなかになく、次のようにある。

Incontinent the void. The zenith. Evening again. When not night it will be evening. Death again of deathless day. On one hand embers. On the other ashes. Day without end won and lost. Unseen. (Samuel Beckett, Ill Seen Ill Said)

ーーこの文は、次のように訳されている(宇野氏の訳は仏版「Mal Vu Mal Dit」からの訳だろうが。ーーべケットの多くの書と同じく、この作品も仏語で書いた後、自ら英語版を出している)。 

いきなり広がる空虚。天頂。また夕方。夜でなければ夕方だろう。また死にかけている不死の光。一方には真っ赤な燠。もう一方には灰。勝っては負ける終わりのないゲーム。誰も気づかない。(サミュエル・ベケット『見ちがい言いちがい』宇野邦一訳、書肆山田、1991年)

ところで、Incontinence について英語版のwikiにはこうある。

Incontinence (philosophy) Incontinence ("a want of continence or self-restraint") is often used by philosophers to translate the Greek term Akrasia (ἀκρασία). Used to refer to a lacking in moderation or self-control, especially related to sexual desire, incontinence may also be called wantonness.

これに依拠すれば、"Incontinence of the Void" は、空虚の勝手気まま、空虚のみだらさ、空虚の貪婪さ等と訳せるか? 

ベケットの『見ちがい言いちがい』には、空虚をめぐってこうもある。

最後の秒の最初。すべてを貪ってしまうために、まだ十分残っているとして。一秒も惜しんで貪るように。空と大地そしてあらゆるごたごた。(…)いや。もう一秒。一秒だけ。この空虚を吸いこむ間だけ。幸福を知る。

First last moment. Grant only enough remain to devour all. Moment by glutton moment. Sky earth the whole kit and boodle. … No. One moment more. One last. Grace to breathe that void. Know happiness. (ベケット『見ちがい言いちがい』)

とすれば、ベケット 自身の表現 Incontinent the voidとは、「(あなたを)貪り喰う空虚」とも意訳できるかも知れない。 あるいは引力としての空虚と。

フロイト用語では引力とは、原抑圧にかかわる。

そしてラカンにとっては、原抑圧は穴である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

さらに穴とはブラックホールとしての引力である。

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

ーーS(Ⱥ)とは、大他者のなかの穴 trou dans l'Autre のシニフィアンのこと。

すると(わたくしの偏った観点からは)、これは母なる空虚である。

ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』lettres 1, 5, 8)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体 le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.として提示した。(ミレール、1993, La logique de la cure)
構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。(ポール・バーハウ, 1995, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL)

ーー《女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。》(古井由吉「すばる」2015年9月号)

母とは巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。…あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

 あるいは母なるブラックホールである。 

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

いやいやこれでは、過剰解釈のそしりをまぬがれないのは知っている。ベケットのような至高の作家を精神分析的に解読するなどと!

これら⋯を精神分析的に解読した場合になる解釈……そんな解釈を得意がって提起するほどわれわれは文学的に破廉恥ではないつもりだ。そうした事実とは、どんな不注意な読者でも見逃しえない図式として、そこに露呈されているだけなのである。(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)

とはいえ、『見ちがい言いちがい』における老婦人は、パーキンソン病との闘病生活に明け暮れたベケットの母の影が落ちているに相違ない。

寝床から、彼女には金星の昇るのが見える。あいかわらず晴れた空に、太陽を背にして金星の昇るのが寝床から見える。そのとき彼女はこの生命の源を恨む。あいかわらず。

From where she lies she sees Venus rise. On. From where she lies when the skies are clear she sees Venus rise followed by the sun. Then she rails at the source of all life. On. (ベケット『見ちがい言いちがい』)

 『見ちがい言いちがい』は端的にそうだが、別の作品においても、Murphy, Watt, Malone, Molloy, Mahood, Worm 等、最もシンプルに言ってしまえば、彼は原母と子宮の作家、すなわち穴の作家でありうる(参照:Samuel Beckett: From the Mother to the Womb)。 

私は母の寝室にいる。今ではそこで生活しているのは私だ。どんなふうにしてここまでやってきたかわからない。救急車かもしれない、なにか乗り物で来たには違いない。だれかが助けてくれた。一人では来られなかったろう。(サミュエル・ベケット『モロイ』)

 『見ちがい言いちがい』の紹介文には、《まなざしもことばも錯誤としてしか機能しないという視座から、錯誤の総和であるしかない生を見つめ、死という終結に向う待機時間としての極限的な生を語る作品》とあるが、これはまさに《人はみな妄想する》である。

 私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(ジャック=アラン・ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009) 

そして、 

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010 )

トラウマとは、ラカン用語では穴と等価である。 

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋め合わせる combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。(ラカン、S21、19 Février 1974 )

たとえば人はまず、次のベケットの映像作品『夜と夢』の右上にあらわれる穴と女はなにかと問えばいいのである。

◆Samuel Beckett ~ Nacht und Träume




わたくしが出会ったなかで最も美しいと感じるシューベルトの『夜と夢』も掲げておこう。

◆Barbara Hendricks  Schubert "Nacht und Träume"




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