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2020年11月2日月曜日

この世の何だって耐えられる、幸せな日々が続く以外は。


人間は、ぎりぎりの極限状態に置かれるとかえって生命力が亢進します。昨日を失い、明日はない。今の今しかない。時間の流れが止まった時こそ、人は永遠のものを求める。

その時、人間同士の結びつきで一番確かなものは、ひょっとして性行為ではないのか。赤剝けになった心と心を重ね合わせるような、そんな欲求が生まれたんじゃないか。

一般的に、エロスとは性欲や快楽を指す言葉かもしれません。が、僕の追求するエロスは、そんな甘いものじゃない。人間が生きながらえるための根源的な欲求のことです(古井由吉「サライ」2011年3月号)


僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)

焼け跡で交わる男女⋯⋯焼き払われると、境がなくなってしまうんですね。敷地と敷地の境も、町と町の境も、それから時間の境もなくなってしまう。そういう無境の中で、男女が交わる。(古井由吉「すばる」2015年9月号)


男女の交わりの一番の恍惚は忘我と変貌です。つまり、顔が変わってくる状態です。これは、 人間にとっても最も恐ろしいことだし、また、一番よく知っていることでもあります。(古井由吉『人生の色気』男女の交わりが含む)


エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)

この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)






この世の何だって耐えられる 

楽しい日々が続く以外は。


Alles in der Welt lässt sich ertragen,

Nur nicht eine Reihe von schönen Tagen.


ーーゲーテ「格言風に Sprichwörtlich」


厳密な意味での幸福は、むしろ相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話的な現象としてしか存在しえない。快原理が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快は与えられず、コントラストによってしか強烈な快を味わえないように作られている。Was man im strengsten Sinne Glück heißt, entspringt der eher plötzlichen Befriedigung hoch aufgestauter Bedürfnisse und ist seiner Natur nach nur als episodisches Phänomen möglich. Jede Fortdauer einer vom Lustprinzip ersehnten Situation ergibt nur ein Gefühl von lauem Behagen; wir sind so eingerichtet, daß wir nur den Kontrast intensiv genießen können, den Zustand nur sehr wenig.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)




………………



人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。


快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。


この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。


人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。

──不快は、《私たちの力の感情の低減 Verminderung unsres Machtgefühls》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤 stimulus》なのである。(ニーチェ『力への意志』第702番、1888年)


私が悦と呼ぶもの、身体を経験するという意味における悦は、つねに緊張・強制・消耗の審級、搾取とさえいえる審級にある。疑いもなく悦は、苦痛が現れはじめる水準にある。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ、有機体の全次元ーー苦痛の水準を外せば隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。


ce que j'appelle jouissance au sens où le corps s'éprouve, est toujours de l'ordre de la tension, du forçage, de la dépense, voire de l'exploit. Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur, et nous savons que c'est seulement à ce niveau de la douleur que peut s'éprouver toute une dimension de l'organisme qui autrement reste voilée. (Lacan : Psychanalyse et médecine, Lacan, 16 février 1966)





悦 Lustが欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)


痛みと快(悦)は力への意志と関係する。Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  (ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)

苦痛のなかの快(悦)[Schmerzlust]は、マゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

フロイトは書いている、「悦はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)




大他者の悦の対象になることが、本来の悦の意志である[D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance]…問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的悦…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…この不安がマゾヒストの盲目的目標である。[Où est cet Autre dont il s'agit ?    …toujours présent dans la jouissance perverse, … situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste,](ラカン, S10, 6 Mars 1963)

大他者の悦[la Jouissance de l'Autre]…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)



なお大他者の悦とは、大他者の性の悦である。


大他者の悦ーーこの機会に強調しておけば、ここでの大他者は「大他者の性」である。la jouissance de l'Autre - avec le grand A que j'ai souligné en cette occasion - c'est proprement celle de « l'Autre sexe », (ラカン, S20, 19  Décembre 1972)

「大他者」とは、私の言語では、「大他者の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。« L'Autre », dans mon langage ce ne peut donc être que l'Autre sexe (ラカン、S20, 16 Janvier 1973 )


では大他者の性とは何か? それはここではダイレクトには言わないでおこう。上の引用群のどこかにその答えがある。ひょっとして古井由吉にあるのではなかろうか? それともニーチェか?