ニーチェは次の遺稿とツァラトゥストラ第二部「自己超克」の節で、「生への意志」などない、「力への意志」しかないと言っているように一読、読める。
生への意志? 私はそこに常に力への意志を唯一見出だす。 Wille zum Leben? Ich fand an seiner Stelle immer nur Wille zur Macht. (ニーチェ遺稿1882 - Frühjahr 1887 ) |
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生への意志[Wille zum Leben]ではなく、カへの意志[Wille zur Macht]! |
真理に向かって、「存在への意志」ということばの矢を射かけた者は、もちろん真理を射当てなかった。そんな意志は存在しない! Der traf freilich die Wahrheit nicht, der das Wort nach ihr schoss vom `Willen zum Dasein`: diesen Willen - giebt es nicht! なぜならーーまだ存在しないものは、意欲するはずがない。またすでに存在しているものが、さらに存在を意欲することは、ありえぬ! Denn: was nicht ist, das kann nicht wollen; was aber im Dasein ist, wie könnte das noch zum Dasein wollen! |
およそ生があるところにだけ、意志もある。しかし、それは生への意志[Wille zum Leben]ではないーーわたしは君に教えるーーカへの意志[Wille zur Macht]だ! Nur, wo Leben ist, da ist auch Wille: aber nicht Wille zum Leben, sondern - so lehre ich's dich - Wille zur Macht! 生きている者にとっては、多くのことが生そのものより高い価値がある。しかしまさにその認識自体から発せられるのが、「カへの意志」だ! Vieles ist dem Lebenden höher geschätzt, als Leben selber; doch aus dem Schätzen selber heraus redet - der Wille zur Macht!" - |
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「自己超克Von der Selbst-Überwindung」1884 年 ) |
だが1888年の『偶然の黄昏』「私が古人に負うところのもの」第5節では、「生への意志」と「破壊の悦も含んだ生成の永遠の悦」を等置している。 |
生のもっとも異様な、そして苛酷な諸問題の中にあってさえなおその生に対して「然り」ということ、生において実現しうべき最高のありかたを犠牲に供しながら、それでもおのれの無尽蔵性を喜びとする、生への意志[der Wille zum Leben]ーーこれをわたしはディオニュソス的と呼んだのであり、これをわたしは、悲劇的詩人の心理を理解するための橋と解したのである。詩人が悲劇を書くのは恐怖や同情から解放されんためではない、危険な興奮から激烈な爆発によっておのれを浄化するためーーそうアリストテレスは誤解したがーーではない。そうではなくて、恐怖や同情を避けずに乗り越えて、生成の永遠の悦そのものになることだ、破壊の悦をも抱含しているあの悦に…… |
Das Jasagen zum Leben selbst noch in seinen fremdesten und härtesten Problemen; der Wille zum Leben im Opfer seiner höchsten Typen der eignen Unerschöpflichkeit frohwerdend – das nannte ich dionysisch, das verstand ich als Brücke zur Psychologie des tragischen Dichters. Nicht um von Schrecken und Mitleiden loszukommen, nicht um sich von einem gefährlichen Affekt durch eine vehemente Entladung zu reinigen so missverstand es Aristoteles: sondern um, über Schrecken und Mitleiden hinaus, die ewige Lust des Werdens selbst Zusein, jene Lust, die auch noch die Lust am Vernichten in sich schliesst.. .« (「私が古人に負うところのもの」第5節『偶像の黄昏』1888年) |
同じ「私が古人に負うところのもの」の第4節では、「生への意志」と、「死の彼岸にある生の永遠回帰」あるいは「創造の永遠の悦 」との等置がある。 |
ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心理のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志[Wille zum Leben]」は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生であり、生の永遠回帰である。過去において約束され清められた未来である。死の彼岸[über Tod]、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。 |
Denn erst in den dionysischen Mysterien, in der Psychologie des dionysischen Zustands spricht sich die Grundtatsache des hellenischen Instinkts aus - sein »Wille zum Leben«. Was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens; die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht; das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus; das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. |
このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・ |
Den Griechen war deshalb das geschlechtliche Symbol das ehrwürdige Symbol an sich, der eigentliche Tiefsinn innerhalb der ganzen antiken Frömmigkeit. Alles einzelne im Akte der Zeugung, der Schwangerschaft, der Geburt erweckte die höchsten und feierlichsten Gefühle. In der Mysterienlehre ist der Schmerz heilig gesprochen: die »Wehen der Gebärerin« heiligen den Schmerz überhaupt, - alles Werden und Wachsen, alles Zukunft-Verbürgende bedingt den Schmerz... |
創造の永遠の悦 [die ewige Lust des Schaffens] があるためには、生への意志[Wille zum Leben]がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・ |
Damit es die ewige Lust des Schaffens gibt, damit der Wille zum Leben sich ewig selbst bejaht, muß es auch ewig die »Qual der Gebä-rerin« geben... Dies alles bedeutet das Wort Dionysos: ich kenne keine höhere Symbolik als diese griechische Symbolik, die der Dionysien. In ihnen ist der tiefste Instinkt des Lebens, der zur Zukunft des Lebens, zur Ewigkeit des Lebens, religiös empfunden, -der Weg selbst zum Leben, die Zeugung, als der heilige Weg... |
(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年) |
私はこれらから「力への意志」は、「生殖への意志」(生殖生成悦の意志)と同じものだと想定する。 |
認識というはたらきにおいてさえ、そこにわたしが感じ取るのは、ただわたしの生殖生成悦の意志[meines Willens Zeuge- und Werdelust]だけである。わたしの認識に無邪気さがあるとすれば、それは、その認識のなかに生殖への意志[Wille zur Zeugung]があることから来ている。 Auch im Erkennen fühle ich nur meines Willens Zeuge- und Werdelust; und wenn Unschuld in meiner Erkenntniss ist, so geschieht dies, weil Wille zur Zeugung in ihr ist. |
(ニーチェ『この人を見よ』「ツァラトゥストラ」の節、1888年) |
さらに言えば、「生への意志」の「生」、「生殖への意志」の「生殖」、この二つは、究極的にはエロスだろうと考える。すなわち究極の「エロスへの意志」が、本来の、あるいは原点にある「力への意志」だと捉える(このエロスの意味は後述)。
ここでフロイトの話を挿入しよう。
フロイトは『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)で、Q要因[quantitativen Faktor]という概念を提示した。この当時のフロイトにはまだ「欲動Trieb」概念はない。『性理論三篇』(1905年)に初めて現れる。だがQ要因が、欲動概念の中核的特性である。のちに《欲動は、心的なものと身体的なものの境界概念[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem]》しての、衝迫 [Drang]と興奮 [Erregung]と定義される(『欲動とその運命』1915)。もともと独語のTriebはTreiben (駆り立てる)から来ている。不快な興奮の集積としてのQ要因=衝迫にいかに対応するかが精神分析臨床の原点である。
そしてニーチェは「力への意志」を定義する核心的な文で、この駆り立てる[Treiben]という語を使っているのである。
力への意志=欲動の力(駆り立てる力) |
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力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: … すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... |
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「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? …… ――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, |
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(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888) |
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最晩年のフロイトーー死の枕元にあったとされる草稿で、フロイトはまさにニーチェの「力への意志 Wille zur Macht 」に相当するだろうものを「エスの力 Macht des Es」と呼んでいる。
ここでフロイトがエスという用語を最初に採用した経緯が記されている『自我とエス』(1923年)を読んでみよう。
どうしてこの「エスの意志 Willen des Es」が「力への意志 Wille zur Macht」の言い換えでないわけがあろう? そしてラカンの「享楽の意志」とは、駆り立てる欲動の力へのことである。ーー《享楽の意志は欲動の名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion. 》(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989) ニーチェやフロイトの使用するLust という語は多義的な語だが、基本的には「快原理のの彼岸Jenseits des Lustprinzips」にあるLustが、ラカンのjouissanceであり、悦とも訳せる。 要するに享楽の意志とは悦の意志もしくは悦への意志である。 ここではニーチェにあわせて「悦への意志 Wille zur Lust」としよう。以下の表現群は基本的に同じものと扱えると私は思う。 ニーチェにおいてエスと悦は等置されうる言葉である。
…………
さて以上から、ニーチェの「生殖への意志」「力への意志」、そしてその別名としての「悦への意志」は、「エロスへの意志」かつ「死への意志」とすることができないだろうか。 私がこのように考えるようになったのは元々は、「婚姻の指輪は死と呼ばれる以外のなにものでもない」で引用した次の文からである。
さらにーー、
こういったニーチェの議論において最も注意しなければならないのは、自我レベルの話をしていないことである(フロイトラカンにおいてももちろんそうだが)。
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