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2020年11月29日日曜日

ヒッチコックの女性恐怖

 ヒッチコックってのは、母親恐怖であったのは自ら告白しているが、高所恐怖症や落下恐怖やらも、やっぱりそれに関係があるんだろうな。


ラカンはフロイト表現「niederkommen lassen(落ちるにまかせる)」を使いつつ、こう言っている。

最も愛された子供は、いつの日か不可解にも母が落ちるにまかせる子供である。…あなたがたは知っているだろう、ギリシャ悲劇において、我々はジロドゥーの洞察を見逃し得ない…これが、クリテムネストラ Clytemnestra についてのエレクトラ Electra の最も深淵な不満である。ある日、クリテムネストラはその腕からエレクトクラを落ちるにまかせたのだ。


que l'enfant le plus aimé, c'est justement celui  qu'un jour elle a laissé inexplicablement tomber…  et vous savez que dans la tragédie grecque…  ceci n'ayant pas échappé à la  perspicacité de GIRAUDOUX. …c'est là le plus profond grief d'ELECTRE à l'endroit de CLYTEMNESTRE, c'est qu'un jour elle l'a laissée  de ses bras glisser (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)



恐怖症から逃れるには、映画に限らずまず象徴化してみなさいということだな。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 [Nacht der Welt]であり、空無[leere Nichts] である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 [reines Selbst]。こちらに血まみれの頭[blutiger Kopf]が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊[weiße Gestalt]が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜[Nacht der Welt]がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)





『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 [la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 [l'objet primitif ]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 [abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ [l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)






やあ、やっぱりオメコは怖いよ


ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750, 1958)





メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4, 27 Février 1957)






真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首は女性器を代表象する。das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, . (フロイト、メデューサの首 Das Medusenhaupt(1940 [1922])  

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)




ところで追跡恐怖ってのも女性恐怖に関係があるのかね




母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り喰う鳥としてあらわれる。(Christopher Lasch, The Culture of Narcissism, 1979)