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2020年11月15日日曜日

母なるシニフィアンと母なる超自我

 超自我と原抑圧との一致」について、もう少し具体的に確認しよう。

ここでは「母なるシニフィアン signifiant maternel」と「母なる超自我 surmoi maternel」用語を抽出する。


原抑圧は事実上「固着」ーー身体的なものが心的なものに翻訳されずエスのなかに居残ることーーであり、この固着にかかわることになる。


◼️まず母なるシニフィアン[signifiant maternel]から始める。


エディプスコンプレクスにおける父の機能は、象徴化を導入する原シニフィアン、母なるシニフィアンを代替することである。La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être  un signifiant substitué au signifiant, c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation,  le signifiant maternel.  (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


1958年のラカンはこう言った。最初には母なるシニフィアンがあり、父のシニフィアンはその代理にすぎないと言ったのである。


そして12年後の1970年には、フロイトの「唯一の徴 einziger Zug」用語を援用して、原シニフィアンは「シニフィアンの起源」という形で表現される。これも「母なるシニフィアン」に相違ない。


ここで私は、フロイトのテキストではその意味が指摘されていないが、そこから「唯一の徴 trait unaire(einziger Zug)」の機能を借り受けよう。すなわち徴の最も単純な形態、シニフィアンの起源(原シニフィアン)である。分析家を関心づけるすべては、唯一の徴にある。j'emprunte pour lui donner un sens qui n'est pas pointé dans le texte de FREUD …la fonction du trait unaire, c'est-à-dire de la forme  la plus simple de marque, c'est-à-dire ce qui est,  à proprement parler, l'origine du signifiant.   …c'est que c'est du trait unaire que prend son origine tout ce qui nous intéresse,  nous analystes, (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

唯一の徴は、享楽の侵入を記念する徴である。trait unaire…d'un trait en tant qu'il commémore une irruption de la jouissance. (Lacan,S17、11 Février 1970)


次に1976年にここでもまた「唯一の徴 einziger Zug」を持ち出して、今度は「骨象 [osbjet]」 あるいは「文字対象a[la lettre petit a]」と表現される。


私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。


quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet  », qui est bien ce qui caractérise  la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet  », la lettre petit a.   Et si je le réduis - cet « osbjet  » - à ce petit a,  c'est précisément pour marquer que la lettre,[…]que j'ai en somme promue  la première fois que j'ai parlé du trait unaire  :  einziger Zug  dans FREUD.  (ラカン、S23、11 Mai 1976)


骨象、すなわち身体に突き刺さった骨=刻印である。この骨象=文字が、固着である。


後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)

精神分析における主要な現実界の顕れは、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合 としての症状である。…現実界の顕れは、文字固着である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance; […]avènement de réel se fait par sa lettre-fixion(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


最初の固着とは、乳幼児の身体から湧き起こる欲動要求という奔馬を飼い慣らす最初の鞍である。通常、これは最初の世話役である母によってなされる。したがって原シニフィアンとしての「母なるシニフィアン」が固着であり、母なる徴である。


フロイトはこの固着を、《女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)》(『性理論論三篇』1910年注)、あるいは《母へのエロス的固着 erotischen Fixierung an die Mutter 》(『精神分析概説』1939年)等と表現している。


この固着が、フロイトラカン派においては、生涯消えない身体の上への刻印としての原症状である。


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)



症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN,  1974.11.30)

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)

症状は、現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)


ーー「書かれることを止めない」とは、フロイトの「無意識のエスの反復強迫Wiederholungszwang des unbewußten Es」と等価である(参照)。


このリアルな症状は、リアルに対する防衛としての象徴的症状と区別と区別するためにサントームとも呼ばれる。


サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン, S7, 16 Décembre 1959)




◼️次に母なる超自我[surmoi maternel]である。


母なる超自我、太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 [surmoi primordial]の効果に結びついているものである。…最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、…母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。


Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN, […] Au niveau du premier autre en tant qu'il est  le support pur et simple des premières demandes,  des demandes si je puis dire émergentes, de ces premières articulations vagissantes de son besoin  au niveau[…] des premières frustrations, […] quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule.  (Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)


ここでもまた1958年に上のように言い、1970年には同じ「依存」という語を使って「母なる女の支配」が語られる。これも母なる超自我に関わるに違いない。


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。


[…]une dominance de la femme en tant que mère, et :   


- mère qui dit,  

- mère à qui l'on demande,  

- mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  


La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン、S17、11 Février 1970)


なおメラニー・クラインは、母の乳房が超自我の起源だと言っている。


私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)


フロイトは超自我の起源については父であるのか母であるのか、最後まで曖昧なままである。


幼児は…優位に立つ他者 unangreifbare Autorität を同一化 Identifizierung によって自分の中に取り入れる。するとこの他者は、幼児の超自我 Über-Ichになる。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)

超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして養育者)の後継者・代理人である。Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten(フロイト『モーセと一神教』1939年)


だが、通常、人生の最初期に幼児を世話するのは母もしくは母親役の人物に相違ない。

したがってラカンは最初期からこう言っている。


太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque(ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)




ラカンのフロイトのエディプスコンプレクス批判は主に上の文脈のなかにある。


名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない fameux complexe d'Œdipe[…] C'est strictement inutilisable ! (Lacan, S17, 18 Février 1970)

エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant  un rêve de FREUD.  ( Lacan, S17, 11 Mars 1970)


この批判の内実は、次の文に最も鮮明に説明されている。


実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。


これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère.  ]…


父を愛に値する者とすることは、ヒステリー者の父との関係[la relation au père, de l'hystérique]における機能を特徴づける。我々はまさにこれを理想化された父[le père idéalisé]として示す。(Lacan, S17, February 18, 1970)


もっともフロイトは原愛の対象に関して次のように言っていることは言っているのである。


小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)

子供の最初のエロス対象[ erotische Objekt] は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着[Anlehnung]に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体[ eigenen Körper] とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 [ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung] の部分と見なす。


最初の対象は、のちに、母という人物 [Person der Mutter] のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係[ beiden Relationen] には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象[Liebesobjekt]として、のちの全ての愛の関係性の原型[Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen]としての母であり、男女どちらの性 [beiden Geschlechtern]にとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、死後出版1940年)


だがこの原愛の対象、原誘惑者を、超自我とダイレクトに結びつけることはしなかった。


以上、原抑圧(固着)と超自我のかかわりを簡潔に示した。つまり「母なる超自我」が幼児の身体の上に刻印する徴、これが「母なるシニフィアン=固着」である、という観点を示した。


この徴は、前回示したように、S (Ⱥ)というマテームに関係する。