さて、「超自我と原抑圧との一致」で示したエキスをまとめれば次のようになる。
ところでラカンはこうも言っている。
S(Ⱥ) にて示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない。S(Ⱥ) je n'en désigne rien d'autre que la jouissance de LȺ Femme, (ラカン, S20, 13 Mars 1973) |
とはいえ何度も示しているように、ジャック=アラン・ミレールは「女性の享楽」の意味合いがこのセミネール20以降、変わったと言っているので(参照)、上の定義がアンコール以降も生き残っているのか確認しておこう。 |
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、2/3/2011) |
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011) |
サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳) |
S(Ⱥ) =女性の享楽=サントーム=固着による身体の自動享楽(本来の享楽)であり、この点に関しては変わっていない。
さらにこうもある。
一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970) |
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女というものは神の別の名である。それゆえに女というものは存在しないのである。La femme […] est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas. (Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
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大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)… 「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。 il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン, S23, 16 Mars 1976) |
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この三つの文をミックスさせれば、「斜線を引かれた女というものは、超自我の別の名である[LȺ Femme est un autre nom de Surmoi]」となる。 ここから次の問いが生まれる。女性の享楽とは超自我の享楽なんだろうか?
女性の享楽の別名は「女性の死の欲動」? さあてどうでしょう、とくに女性の悦やらなんたらとこのラカン概念がとってもお好きらしい女性の方々はよーくお考えになってください・・・ ラカンにおける享楽(悦)という語の意味は基本的には穴か穴埋めしかありません、それ以外の原享楽とは死のことです。 S(Ⱥ)自体、原穴埋めです。最も穴に近い境界表象です。そこから距離を置かないと、死の欲動に直結です。穴とは死の引力のことです。 穴埋めとしての剰余悦とはとっても幅広い内実を持っています。
賎民の方々はこっちの悦に専念なさったらいかがでしょうか?
イヤァ根デハアッチノ悦ガトッテモ好キナンダロウッテノハヨークワカルヨ
ナア・・・ でもこの程度ででは止まらないものです、もっとどんどんエスカレートしてくものです。
オイ、悦トイウ語ヲ甘ッチョロク劣化サデナイデクレヨナ、ワカルカ?
なにはともあれ1970年前後以降のフェミ風阿呆鳥ーー 「そうだわ、女たちのすべてが、ファルス秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、片足は言語秩序に踏み込み、もう一方の足は神秘的な女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」ーーのたぐいの繰り言を、この21世紀が20年も過ぎた現在になってさえ口真似する、などということだけは是非ともおさけになることを切に願ってやみません。 …………
これらの超自我という語は、厳密さを期さなければ、「エスの意志」と呼び変えてもよいでしょう。
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まさかエスの声を知らないわけがあるまい? あのわたしの恐ろしい女主人の声を。
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。ーーああ、わたしの女主人が怒って、エスをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。 Was geschah mir? Wer gebeut diess? - Ach, meine zornige Herrin will es so, sie sprach zu mir: nannte ich je euch schon ihren Namen? |
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。 Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin. 〔・・・〕 |
そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーー Dann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` - |
このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。 Und ich schrie vor Schrecken bei diesem Flüstern, und das Blut wich aus meinem Gesichte: aber ich schwieg. |
と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない」ーー Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht!` - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」) |
なあ、しってるだろ、あの超自我の声を?
超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる。la forme des impératifs interrompus du Surmoi […] apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. (ラカン, S10, 19 Juin 1963) |
ーー《S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうる。substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré》.(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005) |
超自我を除いては、何ものも人を悦へと強制しない。超自我は悦の命令である、 「悦せよ jouis!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : jouis ! (ラカン, S20, 21 Novembre 1972) |
それとも賎民は耳が悪くてきこえないのかい?
ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜の眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 – nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! |
ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? おお、人間よ、心して聞け! – hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! |
(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第3節、1885年) |
エスの声、すなわち母なる悦の声、すなわちわたしの恐ろしい女主人の声は、エディプスの領域に住む賎民以外は、誰もがきこえてくるのさ
エスという語、私はこのエスの確たる参照領域をモノと呼ぶ。le terme de das Es […] j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. (ラカン, S7, 03 Février 1960) |
モノは悦の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959) |
大他者なる「父なる」神への信仰さえやめれば、人はみな必ずきこえる筈だ、あのウロボロスの声が。 |
「純粋な者たち」よ、神の仮面 が、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロスgreulicher Ringelwurm)がいる。Eines Gottes Larve hängtet ihr um vor euch selber, ihr "Reinen": in eines Gottes Larve verkroch sich euer greulicher Ringelwurm. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」1884年) |
悦 Lustが欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。ーー - _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年) |
困ったもんだよ、賎民なる種族は。あの原初の神の声に聾で。 |
歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年) |
あの穴の声への聾者は別名妄想者と呼ばれる。
大文字の母の基盤は、原リアルの名であり、原穴の名である。 Mère, au fond c’est le nom du premier réel, […]c’est le nom du premier trou(コレット・ソレールColette Soler, Humanisation ? , 2014) |
ラカンのまさに最後の教えとして形式化された「人はみな妄想する(人はみな狂っている)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである。C'est la valeur que je donne au Tout le monde est fou qu'a formul é Lacan dans son tout dernier enseignement. Ça pointe vers un au-delà de la clinique, ça dit que tout le monde est traumatisé, […] Et ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. (J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |