リビドー・愛・享楽は、基本的には同じ意味である。フロイトはリビドー は愛だと言っており、ラカンの享楽とはリビドーである。
リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、より詳しくは➡︎「フロイトの愛の定義」) |
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
「基本的には」同じ意味だが、どの言葉をベースにするかで用語の使い方が異なってくる。たとえばジャック=アラン・ミレールは、次のような形で「リビドー」をベースにして三区分している。
リビドーの三相 Troi avatars de la libido |
想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー。libido dans lê resistre de l'imaginaire. […] la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet. |
象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー。libido en fonction du registe du symbolique. […] à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique |
現実界の審級の享楽としてのリビドー。la libido en tant que jouissance oui est du reeiste du réel (Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995) |
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ミレールに大きく依拠しながらも、Bernard Porcheretは最近の彼のセミネールで、「愛」をベースにして三区分している。
愛の三相 Les trois dimensions de l'amour |
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Imaginaire |
愛の要求の相:愛することは、愛されることを要求する – la dimension amour demande : aimer, c'est demander d'être aimé |
Symbolique |
欲望の相:愛される対象はファルスの意味作用をもつ – la dimension du désir : l'objet aimé doit avoir la signification du phallus |
Réel |
愛が享楽・欲動と関係する相 – la dimension où l'amour est corrélé à la jouissance, à la pulsion. |
(Bernard Porcheret, LE RESSORT DE L'AMOUR, novembre 2016) |
リビドー も享楽も一般には馴染みがない言葉であり、一般向けにはこの区分で説明するのが妥当かも知れない。そしてリアルは享楽ではなく欲動でよい。
ラカン的に「享楽」をベースにすれば、次の形になる。
◼️想像界
自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009) |
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愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964) |
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ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである。qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,[…] l'amour c'est le narcissisme (Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
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ーーラカンがなぜ愛=ナルシシズムを想像界に特化させたのかといえば、おそらく精神分析の患者のほとんどは、イマジネールな愛の病いのせいだったからではないだろうか。ラカンの定義では、愛は隠喩、欲望は換喩である。隠喩、すなわち何かを隠蔽している症状であり、愛に悩む患者が精神分析の主要な対象になるのは必然である。
さて象徴界と現実界であるが、以下に示そうとする象徴界の審級にある「ファルス享楽」は、実際はファルス欲望あるいはファルス快と呼ぶほうが相応しい。ファルスとは言語作用という意味が主である。
したがってファルス享楽は言語内の享楽であり、中期までのラカンの定義上では欲望でしかない。もっとも《欲望は、欠如の換喩と同じ程度に、剰余享楽の換喩である。 le désir est autant métonymie du plus-de-jouir que métonymie du manque》. (コレット・ソレール Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)という相もあり、欠如ではなく、剰余享楽の換喩の相を前面に出せば、ファルス享楽と呼んでもおかしくはない。さらに言えば、この相ーー剰余享楽は種々の局面がありここでは説明を省くが、何よりもまず欲望の原因としてのフェティッシュであるーーこのフェティッシュの換喩として欲望を扱えば、紋切型のようになってしまっている「欲望は大他者の欲望」は、欲望を扱う核心ではまったくなくなる。
さて以下は、現実界の「本来の享楽」を中心に注釈を示す。 ◼️象徴界と現実界 |
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ファルス享楽とは身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである。la jouissance phallique [JΦ] est hors corps, la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique, (ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974) |
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大他者は身体である![L'Autre c'est le corps!] (ラカン、S14, 10 Mai 1967) |
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大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない。La jouissance de l'Autre, […] il n'y a que la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009) |
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自己身体の享楽はあなたの身体を「異者としての身体 corps étranger」にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009) |
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ーーこれはいまだあまり知られていないようだが、「大他者の享楽」とは「自己身体の享楽」であり、さらに自己身体とは究極的には、喪われた自己身体ーーかつて自らの身体だとみなしていたが去勢されてしまった身体ーーであり、これを「異者としての身体」(フロイトの異物 Fremdkörper)とよ呼ぶ。 そしてこの「異者としての身体の享楽」が「女性の享楽」であり、解剖学的女性とは基本的には関係がない。 |
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ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté. (Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
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確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である[ c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011) |
以上、どの語をベースに置くかで、次の形の三区分が内実となる。