ランボーの《私はひとりの他者だ JE est un autre》は比較的よく知られているだろうが、ネルヴァルも《私は他者だ Je suis l'autre 》と言っており、ヴァレリー もそうだ。 |
人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳) |
ほとんどの人はこういった言葉を正面からは受け止めていないだろうし、「私」もどちらかといえばそうだ。そもそも社会の成員として生きていく上では、「私は他者だ」とは言っていられない。人に何かを問われれば「この私」として応じる。 |
詩人たちのいう「他者」だっておそらくそれぞれ異なるだろう。autreとあるだけなのでたんなる「他」かもしれない。ヴァレリーのいう「他者」は、通常、「言語」と解釈される。 |
ランボーやネルヴァルはどうか。言語かも知れないし、ひょとしてフロイト的に「私は私の主人ではない」と言っているのかもしれない。 |
自我は自分の家の主人ではない Ich […] es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause(フロイト『精神分析入門』第18講、1917年) |
あるいはニーチェ的に肉体のことを言っているのかも知れない。 |
君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる智 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年) |
ラカンの他者は前期は基本的には「言語」だったが、しだいに「身体」になっていく。 |
大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967) |
私は私の身体で話してる。自分では知らないままそうしてる。だからいつも私が知っていること以上のことを私は言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (ラカン、S20. 15 Mai 1973) |
ところで〈あんた〉は誰だい?
たとえばツイッターやらで日々、
僕はこう考える、私はそう思う、
と言っているあんたたちは?
私は私の家の主人系かい?
私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたオタンチン con-vaincu のことである。(ラカン、S20、13 Février 1973) |
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だな、少なくとも主語「私」に支配されたコンだな、 なんとかそこから「自由」になれないもんかね、 言語なんかに支配されちまってて。 |
「自己Self」とは、主体性の実体的中核のフェティッシュ化された錯覚であり、実際は何もない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012) |
私はここで、Jean-Louis Gault の談話に言及しようと思う。それは、主体のパートナーに関するものだ。彼は言う、主体の生活の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体であると。…事実上、彼が言う通り、他者との関係は、言語との関係としての何ものかである。それは人間との関係ではない。(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009) |
無理だね、支配者から逃れるのは。
一生、言語の囚人で終わるんだよ、人間って。
フロイトの視点に立てば、人間は言語によって檻に入れられ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン, S3, 16 mai 1956) |
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そういえば、谷川俊太郎が
「コトバとコトバの隙間が神の隠れ家」
って言ってたな、これしかないよ、
たとえば音楽も絵画もあれはコトバだっての知ってるかい?