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2020年12月26日土曜日

あらゆる形の自殺に、演技の意識が伴ふーーとは言えない

 前回、手元の、主に芥川と三島の「自殺」文献からひとつ外した文がある。


あらゆる形の自殺に、演技の意識が伴ふことを、心理学者はよく知つているが、私には自殺という行為は、他のあらゆる人間行為と同様、あらはな、あるひは秘められた不純な動機を手がかりにして、はじめて可能になるものだと思はれる。(三島由紀夫「心中論」1958年)



通常のレベルではこれでいいだろう、多くの場合、自殺も演技のひとつである。


この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」)

かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。(ニーチェ「卑小化する徳」『ツァラトゥストラ』第3部、1894年)



だがラカン派においては演技ではない自殺もあるとされる。


ラカンはアクティングアウトとパッセージアクトを区別している。前者が大他者へのメッセージの審級にあり、三島のいう演技としての自殺にかかわる。他方、パッセージアクトは、大他者(言語)の彼岸にあるリアルな行為であり、演技ではない自殺である(もっともこの二つは時に区別しがたいこともあるだろうが)。



◼️アクティングアウトとパッセージアクト

アクティングアウトはイマジネールな領野にある。[acting out, c'est-à-dire sur le plan imaginaire]…パッセージアクトははその彼岸にある。[passage à l'acte […] cet au-delà,](ラカン, S4, 19 Décembre 1956)

アクティングアウトは本質的にデモンストレーションである。[L'acting-out essentiellement, c'est la monstration]…アクティングアウトは大他者に宛てられる。[c'est un acting-out, donc ça s'adresse à l'Autre.]…他方、リアルへの移行が、パッセージアクトにはある。[à passer dans  ce réel, dans un passage à l'acte](ラカン, S10, 23 Janvier 1963)


パッセージアクト(行為への遂行)の極みは、自殺である。[Le comble du passage à l'acte, c'est le suicide ](J.-A. Miller, 1, 2, 3, 4 -COURS DU 15 MAI 1985)

死はまさに欲動の地平である[La mort est bien l'horizon même de la pulsion]。死が欲動の地平であるのは、シンプルに、欲動において主体は自らの欠如をターゲットにする[ le sujet vise son propre manque]からである。〔・・・〕


ここにパッセージアクト(行為への遂行)とアクティングアウト(行動化)とのあいだの相違[la différence du passage à l'acte et de l'acting-out.]を為すものがある。


パッセージアクトにおいて、主体は自らの喪失を以て作動する。存在の打開策である。行為への遂行は、穴Ⱥに関わって為される。それは大他者からの全き分離に関わる。Le passage à l'acte est une manœuvre d'être qui se fait au regard de Ⱥ, au re-gard de la séparation complète d'avec l'Autre.


反対に、アクティングアウトは、意味の打開策である。アクティングアウトは大他者をその場に維持することを想定している[L'acting-out, c'est une manœu-vre de sens. L'acting-out suppose au contraire le maintien de l'Autre à sa place.]。〔・・・〕

アクティングアウトも享楽を以て、存在を以て為されるには相違ない。だが常に意味に関わる[Il joue sans doute avec la jouissance, avec l'être, mais toujours au regard du sens. ](J.-A. Miller, Ce-qui-fait-insigne, 4 FEVRIER 1987)



Ⱥとは、言語外の欲動の現実界を表し、リアルな水準にある「身体の享楽」にかかわる。ラカンには別に、イマジネールな「自我の享楽」、言語内のシンボリックな「ファルス享楽」がある。リアルな享楽とは、ダイレクトにフロイトの欲動自体であるーー《欲動とは心的生に課される身体的要求である[Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben].》(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


現実界は穴=トラウマを為す。[le Réel…ça fait « troumatisme »](ラカン, S21, 19 Février 1974)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である。La pulsion de mort c'est le Réel […] la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)



もっともラカンが真の穴、あるいはJ(Ⱥ)[穴の享楽]と示したポジションは、ボロメオの環における現実界と想像界の重なり目であり、象徴界の外部にはあるが、想像界の外部ではない。




この穴をラカンはフロイトの原抑圧の穴として示した。原抑圧とは何よりもまず固着のことである(参照:簡潔版:S(Ⱥ)=超自我=原抑圧=固着)。ーー《分析経験の基盤、それはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, […]précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation].》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matérie]、固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



最初にある固着とは、原大他者、別名「母なる超自我」による身体の上への刻印である(参照:母なるシニフィアンと母なる超自我)。