このブログを検索

2020年12月18日金曜日

無知の分野の用語なんか使わなければいいのに

 


しかし最近のインテリってどうしてこういうおバカなことをマガオで言うようになったんだろうな

けれども、ぼくがよりおそろしいと感じ、考えをめぐらせたいのは、超自我のない悪についてなのである。悪の愚かさについて、それはすなわち、悪における超自我の欠如の意味についてということなのだ (東浩紀「悪の愚かさについて」)


ホントに無知のままボク珍の超自我を勝手に想定して語ってんだろうな。


超自我ってのはエス(=リアルな身体)の代理人なんだけどな


超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく仮定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)

人の発達史と人の心的装置において、原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates [] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年)

エスの力[Macht des Es]は、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。〔・・・〕エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された強制力 Kräfte は、欲動と呼ばれる。欲動は、心的な生の上に課される身体的要求を表す。


Die Macht des Es drückt die eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesens aus. Sie besteht darin, seine mitgebrachten Bedürfnisse zu befriedigen. Eine Absicht, sich am Leben zu erhalten und sich durch die Angst vor Gefahren zu schützen, kann dem Es nicht zugeschrieben werden. Dies ist die Aufgabe des Ichs [] Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe. Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)



アズマってのはこの知的退行の世紀の言論界では、マトモなほうだと思ってたんだがな、無知の分野の用語なんか使わなければいいのに。



超自我を除いて、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である,「享楽せよ!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! », (ラカン, S20, 21 Novembre 1972)


ーー《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (Pierre Gilles Guéguen、The Freudian superego and The Lacanian one, 2016)






あいつはデリダ研究者だったはずだが、死の年のデリダはこう言ってんだけどさ


鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻」。

この最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い。私自身なかのように。私のなかの他者の声のように。他者の私の声のように。そしてその名、この最も静かな時間の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。〔・・・〕


今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない。まったく鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で」だ。


Une colombe traverse un chant, tout à la fin de la deuxième partie du Also sprach Zarathoustra, « Die stillste Stunde », « l'heure du suprême silence ». Cette heure du suprême silence prend la parole, […] elle me murmure au creux de l'oreille, elle est au plus proche de moi, comme en moi, comme la voix de l'autre en moi, comme ma voix de l'autre, et son nom, […] c'est le nom de ma terrifiante souveraine. » […]


Or où en étions-nous à l'instant ? Non pas à la manière de la colombe, disions-nous, et surtout pas à pas de colombe mais « à pas de loup ». (ジャック・デリダJacques Derrida , LE SOUVERAIN BIEN - La conférence de Strasbourg 8 juin 2004)


この私の恐ろしい女主人が、エスの代理人の超自我なんだけどな。ま、ボクに言わせれば、としておいてもいいが。


超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる。la forme des impératifs interrompus du Surmoi […] apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. (ラカン, S10, 19 Juin 1963)


何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。ーーああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。


Was geschah mir? Wer gebeut diess? - Ach, meine zornige Herrin will es so, sie sprach zu mir: nannte ich je euch schon ihren Namen?


きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。


Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin.〔・・・〕

そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーー


Dann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` -


このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。


Und ich schrie vor Schrecken bei diesem Flüstern, und das Blut wich aus meinem Gesichte: aber ich schwieg.


と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない」ーー


Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht!` -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)


ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。[was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck »gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten]


この力をグロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。


グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。[Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)



『批評空間』がなくなったのはやっぱりひどくイタイんじゃないか。柄谷行人や浅田彰もときにおバカなこと言ってないわけではなかったが、あの雑誌はへなぼこインテリを徹底的にバカにする機能をもっていたからな、で、バカにされたらおおむね沈黙するようになったよ、ヒステリー おこすヤツもいてとってもオモシロカッタな。


➡︎ところできみは臍の穴あるかい?


➡︎ 現在に至っても続く「思想界の最悪の不幸」