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2021年1月17日日曜日

愛憎コンプレクス猖獗の時代

 


フロイトは『欲動とその運命』(1915)で、愛の三つの対立関係を示している。


①愛する-憎む lieben–hassen

②愛する-愛される lieben–geliebt 

③愛憎-無関心 lieben und hassen-Indifferenz


これは今でも生きている実に正統的な分類で、①②は誰でもわかるだろうからよしとして、③の愛憎というのは、《愛憎コンプレクス. Liebe-Haß-Komplex》(Freud, 1909)という相もある。


たとえば、映画でよく見られる、「宿命の女を愛することを憎む」「悪役を憎むことを愛する」という現象はこれまた誰もが知っている話だ。ヒッチコックは「悪役によってのみ映画は唯一魅力的になる」という意味合いのことを言ったが。


でもフロイトは次のようなことを言ってしまう人でもあり、現在のフェミニストならきっと「何て古いの!」と言い放つことだろう。


女たちの性格特徴に対して、どの時代の批評も非難をしてきた、女たちは男に比べ脆弱な正義意識をもつとか、生が持つ大いなる必然に従う心構えが弱い、女たちは愛憎感情にはるかに影響されると。〔・・・〕


Charakterzüge, die die Kritik seit jeher dem Weibe vorgehalten hat, daß es weniger Rechtsgefühl zeigt als der Mann, weniger Neigung zur Unterwerfung unter die großen Notwendigkeiten des Lebens, sich öfter in seinen Entscheidungen von zärtlichen und feindseligen Gefühlen leiten läßt, 


われわれに完全なジェンダー平等と等価をおしつけようとしているフェミニストたちの反対にあったからといって、このような判断に迷う者はいないだろう。Durch den Widerspruch der Feministen, die uns eine völlige Gleichstellung und Gleichschätzung der Geschlechter aufdrängen wollen, wird man sich in solchen Urteilen nicht beirren lassen, (フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)


古いついでに(?)ニーチェも掲げておこう。


女が愛するときは、男はその女を恐れるがいい。愛するとき、女はあらゆる犠牲をささげる。そしてほかのいっさいのことは、その女にとって価値を失う。


Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es liebt: da bringt es jedes Opfer, und jedes andre Ding gilt ihm ohne Werth.  


女が憎むときは、男はその女を恐れるがいい。なぜなら、魂の底において、男は「たんなる悪意の者Seele nur böse」あるにとどまるが、女は「悪 schlecht」(何をしでかすかわからない)だから。


Der Mann fürchte sich vor dem Weibe, wenn es hasst: denn der Mann ist im Grunde der Seele nur böse, das Weib aber ist dort schlecht.  


女はどういう男をもっとも憎むか。――鉄が磁石に言ったことがある。「わたしがおまえをもっとも憎むのは、おまえがわたしを引きながらも、ぐっと引きよせて離さぬほどには強く引かないからだ」と。


Wen hasst das Weib am meisten? - Also sprach das Eisen zum Magneten: "ich hasse dich am meisten, weil du anziehst, aber nicht stark genug bist, an dich zu ziehen."  


男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)


で、たとえばこうもある。


最後に私は問いを提出する。女自身は、女性の心は深い、あるいは女性の心は正しいと認めたことがかつて一度でもあったのだろうか? そして次のことは本当であろうか? すなわち、全体的に判断した場合、歴史的には、「女というもの das Weib」は女たち自身によって最も軽蔑されてきた、男たちによってでは全くなく。"das Weib" bisher vom Weibe selbst am meisten missachtet wurde - und ganz und gar nicht von uns? -(ニーチェ『善悪の彼岸』232番、1886年)





私はこういった話がトッテモ好きなほうだが、ま、そうは言っても時代が変わったのだからいくらかの補正はしなくちゃならない。


女らしさと男らしさの社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情を開き、愛することを。そして女性化することさえをも求められています。逆に女たちは、ある種の《男性化への駆り立てpousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられているのです。したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、自己自身で「享楽の様式と愛の様式」を身につけるように求められているのです。


Les stéréotypes socioculturels de la féminité et de la virilité sont en pleine mutation. Les hommes sont invités à accueillir leurs émotions, à aimer, à se féminiser; les femmes, elles, connaissent au contraire un certain « pousse-à-l'homme » : au nom de l'égalité juridique, elles sont conduites à répéter « moi aussi ». […] D'où une grande instabilité des rôles, une fluidité généralisée du théâtre de l'amour, qui contraste avec la fixité de jadis. L'amour devient « liquide »,[…]. Chacun est amené à inventer son « style de vie » à soi, et à assumer son mode de jouir et d'aimer. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)


女性においてはある意味でたしかに《男性化への駆り立てpousse-à-l'homme》があるだろう。

ただし基本的には、エディプス的父の失墜の時代には、男も女も《女性化への駆り立て [pousse-à-la-femme]》(Lacan, エトゥルディ,1972)があるというのがラカンの観点で、これを受け入れるなら、かつての家父長制の原理が厳然にあった時代や環境の人たちに比べて、父なき時代の現在の人たちは、正義意識ではなく愛憎感情に動かされる傾向を持つということになる。


ま、これはたぶんアタリだよ。ラカンは学園紛争を契機に世界的な《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》(AE534)をしてるけどさ。



原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった。il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロランÉric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


ここでのファルスとは身体的な享楽を飼い馴らす言語の法という意味である。


言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)