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2021年1月16日土曜日

上野千鶴子語録

上野千鶴子さんの(私にとって)印象深い発言をいくつか列挙する。


それをもっているために女であり、そのために男を誘惑し、それが原因でおとしめられ、女の中核でありながら、女自身から最も女が遠ざけられているもの (上野千鶴子『女遊び』1988年)

おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない.そしてたくさんのおまんこをとおして“女性自身(わたしじしん)”が見えてくることだろう。(上野千鶴子『女遊び』1988年)

女の下着にはもともと、性器を隠す機能は必要ありません。女の性器は解剖学的な位置関係や形状からいっても、そのままでは外から見えない部分です。(上野千鶴子『スカートの下の劇場』1989年)

性的な身体を女性は見られることによって獲得していきます。女性にとって自己身体意識、あるいは自己身体イメージの獲得は、思春期以降、男性からかくあるべき身体として自分に付与される視線によって、その視線を内面化することによって獲得されます。(上野千鶴子 『性愛論』1991年)

女を性器に還元しながら、その女に依存せずには自分の欲望を満たすことができない男の性欲の自縄自縛の構造を、だれよりも呪詛しているのは男自身だろう。このなかに男のミソジニーの謎のすべて―ミソジニーはもともと男のものだ―が含まれている。(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』2010年)

家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである。(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』2010年)

性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい。相手のあるセックスをしたければ、相手の同意が必要なのは当たり前だろう。セックスは人間関係なのだから、関係をつくる努力をすればよい。〔・・・〕カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ。男たちが変わるのに何世紀かかるかわからないが、この男の不気味さは男に解いてもらいたい。(上野千鶴子「売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化」週刊ポスト2013年6月7日号)

@ueno_wan: 男のお守りはもうたくさんだ。女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする。いいかげんにしろ、と言いたい。(上野千鶴子、2016 05.24)


①③④ は実に正当的な主張だな。あとはいくらかーー場合によってはひどくーー議論の余地がある、一部「日本言論界の全能の母」にて批判的検討をしたけれど。

フェミぎらいの男性諸氏もぜひ上野さんの発言に抵抗してください。手始めに⑤なんかどうでしょう。ツイッターでのカボチャ頭のフェミ発言を叩いても始まりません。せめて御本尊に対する批判的検討から始めないと。


ここではフロイトラカンなどとヤボなことは言わず、90年前の愛すべき詩人の言葉を掲げておきますからご参考に。

女嫌いとは何だろうか? 「自分の嫌うところは」と、定評あるストリンドベルヒが正直に答えて居る。「女の気質や性格であって、肉体に属するものではない。」と。同様にショーペンハウエルが、彼の哲学で罵倒しながら、彼の膝の上で若い女を愛撫して居た。すべての女嫌いについて、定義し得るところはこうである。人格としてでなく、単に肉塊として、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。(婦人に対して、これほど憎悪の感情をむき出しにした、冒涜の思想があるだろうか。)


しかしながら一方では、それほど観念的でないところの、多数の有りふれた人々が居り、同様の見解を抱いている。殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対してどんな精神上の要求も持っていない。女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎないのである。しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等は、決してどんな場合に於ても、女性への毒舌や侮辱を言わないから。


然る一方で、何故に或る人たちが、常に女性を目の敵にして、毒舌や侮辱をあえてするのだろうか。(それによって彼等は、女嫌いと呼ばれるのである。)けだしその種の人々は、初めから女に対して、単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格やを、真面目に求めているからである。女がもし、単なる肉であるとすれば、もとより要求するところもなく、不満するところもないだろう。彼等もまた世間多数の男と同じく、無邪気に脂肪の美を讃美し、多分にもれない女好きであるだろう。それ故に女嫌いとは? 或る騎士的情熱の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。然り! すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直なロマンチストにすぎないのである。(萩原朔太郎『虚妄の正義』1929年)