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2020年11月11日水曜日

日本言論界の全能の母


家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである。(上野千鶴子『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』2010年)

@ueno_wan: 男のお守りはもうたくさんだ。女に甘え、女に依存し、女につけこみ、女をなめきり、それができないと逆ギレする。いいかげんにしろ、と言いたい。(上野千鶴子、2016 05.24)


誤解してはならない。支配の論理に陥りがちな家父長制がいいわけはないが、全能の母権制はもっと悪い。上野千鶴子さんはそれがわかっていない筈はないと思うんだが、どうも日本言論界において全能の母として振舞ってしまっていると感じざるをえない時がある。たとえば朝日新聞の人生相談などはドウシヨウモナクハシタナイ。



全能の母

家父長制とファルス中心主義は、原初の全能の母権システムの青白い反影にすぎない。

the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  1998年)

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。[la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant](ラカン、S4、06 Février 1957)

(原母子関係には)母なる女の支配[une dominance de la femme en tant que mère ]がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存[dépendance ]を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)



全能の母権制の別名は母なる超自我の支配だ。


母なる超自我の命令

超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン, S7, 18 Novembre 1959)

エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)

「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel :   […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?   (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

エディプスの純粋な論理は次のものである。すなわち超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある 。それは父の名の平和をもたらす効果とは反対である。だがラカンの「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎないことである。その普遍的特性は享楽の意志の奉仕である。


C'est pure logique de l'Œdipe : au désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi, opposer la loi qui vaut pour tous, l'effet pacifiant du Nom-du-Père. Mais chez nous, on interprète Kant par Sade, et on sait que le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi, que l'universel est au service de la volonté de jouissance. (J.-A. Miller, Théorie de Turin, 2000)



享楽の意志とは、欲動、自己破壊あるいは死の欲動のことである。


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un 自己破壊nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)



ジャック=アラン・ミレール だけではご不満の方もいらっしゃるだろうから、フロイトからも引用しておこう(ごく最近、アズマやらコクブンやらが超自我理解ゼロなのをゲンロンなる場で晒していたのを垣間見てしまったということもある。後者はいまだドゥルーズ の超自我誤読を引きずっているのだろうが)。



超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



というわけで、全能の母あるいは母なる超自我は死の欲動の審級にある。この母なる超自我が事実上の超自我自体である。





そしてこの超自我が、中井久夫の言い方なら母なるオルギアである。



母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)

個を越えた良性の権威へのつながりの感覚(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)

ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)



たとえば日本においても明治以降1945年まで約75年間、擬似一神教的天皇制を試みて悲惨な結果に陥ったのは誰もが知っている筈だ(ネトウヨ以外は、と保留しておかねばならないが)。要するに家父長制は悪い。とくに日本のような知的風土であの形式の家父長制をやれば、テキメンの集団神経症になりインテリまで含め批判精神ゼロになってしまう(参照)。


だが母なるオルギアはもっと悪い。父なるレリギオを模索しなければならない。






これが柄谷が「帝国の原理」、ラカンが「父の名の使用」と言っていることだ。両者を混淆させて父の原理と言っておこう。



父の原理

帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)

近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)


帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)



この程度のことはコンセンサスにしてほしいね、この父なき時代、オルギアの時代、とくに新自由主義という資本のオルギアの時代のクッションの綴じ目としての「父の原理=父なるレリギオ」の必要不可欠性を。たとえばマルチチュードなんてのは、オルギアの審級でしかない。ネグリ自身が遅蒔きながらごく最近それを悟った(参照)。