このブログを検索

2020年11月11日水曜日

四人の注釈者による固着文献

 以下、私が依拠することが多いポール・バーハウ、ジャック=アラン・ミレール 、コレット ・ソレール、そしてピエール=ジル・ゲガーンによるフロイトの固着注釈を掲げる。

◼️「固着というリアルな症状」と「症状の形式的封筒というシンボリックな症状」

フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「心的なもの」である(現勢神経症と精神神経症)。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。


これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、『性理論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。〔・・・〕


この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 、2002)

《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》とは、原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,2004)




原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)

享楽は、残滓 (а)  を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



◼️固着という「穴埋めとしての現実界」と「去勢という享楽喪失の穴」

穴埋めとしての現実界、これがラカンのテキストが言っていることである。現実界の無意識は閉じられた無意識である。現実界の戦慄は穴埋めであり、たんに去勢の戦慄ではない。


le réel comme bouchon ; c'est ce que dit le texte. […] l'inconscient réel est un inconscient fermé.[…] C'est horreur du réel bouchon et pas seulement horreur de la castration. (Colette Soler, L'acte analytique dans le Champ lacanien 2009)

「現実界は穴埋めである」と言うことは、ボロメオの環の構造のなかに穴埋めを置くことである。穴埋めされるものは常に穴である。ラカンはとても早い時期に「症状の形式的封筒」を語った。対象aのイマジネールな封筒としての症状である。そのイマージュは解読されうる。症状の形式的封筒は、判読されうる意味のある構築物である。〔・・・〕しかし誰が言っただろう、封筒が意味するもの、封筒される何ものかについて。封筒は何を包むのか? 疑いもなく最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。〔・・・〕しかしながら、この穴を開けられた現実界にはまた、享楽の固着という穴埋めがある。〔・・・〕この固着をラカンは時に文字と呼んだ。

Dire que le réel est bouchon, c'est une façon de le placer dans la structure du nœud borroméen. Ce qui se bouche, ce sont toujours des trous. Lacan a parlé très tôt de l'enveloppe formelle du symptôme, comme de l'enveloppe imaginaire de l'objet a, auquel l'image fait chasuble. L'enveloppe formelle du symptôme désignait l'architecture signifiante à déchiffrer. […] Mais qui dit enveloppe implique qu'il y a de l'enveloppé. Qu'enveloppe-t-elle ? Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. […] Dans ce réel troué, cependant il y a aussi le bouchon d'une fixion de jouissance […] que Lacan appelle lettre à l'occasion. . (コレット・ソレール Colette Soler, La passe réinventée ? , 2010)





◼️固着としてのリアルな症状

精神分析における主要な現実界の顕現は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である。〔・・・〕現実界の顕現は文字固着を通して起こる。〔・・・〕現実界のすべての定義は次の通り。常に同じ場かつ象徴界外にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため--であり、反復的でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なきものである。したがってラカンが現実界的無意識について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「1がある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」である。


l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance;…L' avènement de réel se fait par sa lettre-fixion…Toutes les définitions du réel s'y appliquent : toujours à la même place, hors symbolique, car identique à elle-même ; réitérable mais sans rapport de chaîne à d'autre Sa, solidaire donc des deux formules qui chez Lacan commente l'inconscinet réel, "y a de l'Un", formule qui à la fois complète et fonde le "y a pas" du RS.  (コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)


◼️文字あるいは文字固着としての骨象a[osbjet a]

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。


quelque chose que j'appellerai dans cette occasion : « osbjet  », qui est bien ce qui caractérise  la lettre dont je l'accompagne cet « osbjet  », la lettre petit a.   


Et si je le réduis - cet « osbjet  » - à ce petit a,  c'est précisément pour marquer que la lettre,[…]que j'ai en somme promue  la première fois que j'ai parlé du trait unaire  :  einziger Zug  dans FREUD.  (Lacan, S23, 11 Mai 1976)

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』2001年)




◼️分析経験の基盤としての固着

現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、「単独的な唯一のシニフィアンsingulièrement le signifiant Un」である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「唯一のシニフィアンle signifiant Un 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。


Cette position du réel, je suis arrivé à la coincer de deux coordonnées cueillies dans le dernier enseignement de Lacan : le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2 et prenant sens à partir de lui, donc le signifiant Un –, et puis, de ce terme où Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. []


私は考えている、この「1と享楽[Un et de la jouissance]の結びつき」が分析経験の基盤であると。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。


je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


◼️生を通して存続する固着

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)



◼️固着が身体に穴を掘る


ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。

le corps que Lacan introduit est[…] un corps qui se jouit, c'est-à-dire un corps auto-érotique, un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, pas plus qu'on n'a chance de faire exister le rapport sexuel. (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)






ピエール=ジル・ゲガーンの言っていることは一見、コレット ・ソレールの言っていることと異なっているように見える。ソレールは《疑いもなく最初の場処には、去勢という享楽喪失の穴がある。〔・・・〕しかしながら、この穴を開けられた現実界にはまた、享楽の固着という穴埋めがある》と言っているのだから。だが遡及性概念を導入すれば矛盾は解決する。


遡及性によって引き起こされるリビドー(=享楽の穴)。[daß die durch Nachträglichkeit erwachende Libido ](フロイト、フリース宛書簡 Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 14. 11. 97)

トラウマの序列は実際は遡及的に置かれる。ce qui est de l'ordre du trauma est en fait rétroactivement posé. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴化によってのみ「遡及的に」現勢化されうる。(ロレンゾ・チーサLorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness, 2007)


たとえばミレールとバーハウ は各々同じ内容を含む次の図を示している。





なお、穴としての(a)は次のようなマテームでも示される。







以上、この穴が「書かれることを止めない」現実界である。


現実界は穴=トラウマを為す。[le Réel…ça fait « troumatisme »](ラカン, S21, 19 Février 1974)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界は書かれることを止めない[ le Réel ne cesse pas de s'écrire](Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)


そして「書かれることを止めない」は、


・無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es

同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen

・死の欲動 Todestriebe


と等価であり、フロイトにおいては、不変の個性刻印としての「同一のもの」が固着である(参照)。


……………


最後に五人目の注釈者として古井由吉の固着をめぐる文を掲げておこう。



頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。


小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。


しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)



古井由吉の言っている幼少の砌の固着は、フロイトラカン的な原初的なものではないかもしれないが、ーー少なくとも古井由吉の読者なら誰もが明瞭に気づくだろうように、戦争体験への固着が主であるーー、ここで参考のためにフロイトを引用しておこう。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)