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2021年1月19日火曜日

抑圧という語は訳語が悪い

 

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)



抑圧という語は訳語が悪い。


中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)批評空間2001Ⅲー1)

(トラウマにかかわる)解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)




現代ラカン派では、原抑圧に関して固着あるいは排除という語が使われることが多い。とくにラカンの現実界を表現するのに「固着」という語が核心となっている(参照)。



◼️原抑圧=固着

抑圧の第一段階(原抑圧)は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)

原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


ラカン自身はフロイトの排除という語を多用した。


◼️原抑圧=排除

原初に抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe] (フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー )1911年)

排除された欲動 verworfenen Trieb(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)


ーー欲動、すなわち身体的要求。


エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)




◼️ラカンにおける排除と(原)抑圧

私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)


ーー享楽、すなわち欲動であり、身体的要求。


ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



フロイトは一時的にはこう言った。


抑圧は排除とは大きく異なる何ものかである。Eine Verdrängung ist etwas anderes als eine Verwerfung. フロイト『狼男 DER WOLF MAN』第7章、1918年)


だが前期から晩年まで、この抑圧/排除を厳密に使い分けているわけではない。


たとえば次の1896年と1939年の二文の抑圧は明らかに原抑圧=排除。


翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧 Verdrängung」呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fließ, 6.12.1896)

抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)





次の文の抑圧も原抑圧=排除=固着。

人は、忘れられたものや抑圧されたもの[Vergessenen und Verdrängten]を「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している[ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt]。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)


ラカンは既に早い段階で上の文の抑圧が固着であることを示している。


想定された本能的ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史のスティグマである。恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される。[toute fixation à un prétendu stade instinctuel est avant tout stigmate historique :  page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige.  Mais l'oublié se rappelle dans les actes](Lacan, E262, 1953)

ラカンは欲動的対象との関係[le rapport à l'objet pulsionnel ]において「抑圧されたもの」のモデルを考えようとした。これが次の凝縮された叙述が意味していることである。《このページは忘れられている。だが行為として呼び戻される[cette page est oubliée mais elle se rappelle dans les actes ]». これが意味するのは、抑圧されたものの回帰は欲動的享楽に関係するということである[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle]。(J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99)



人はみな恥のページを回帰させてんだろうよ、自分では気づかずに。他人のほうがむしろ気づくことが多いんじゃないか。個人だけでなく歴史のトラウマももちろん回帰する。マルクスが『ルイ・ポナパルドのブリュメールの十八日』でフランス革命における王殺しの皇帝回帰を指摘したように。日本の戦争トラウマだって同じさ。






◼️付記

「享楽の排除」あるいは「享楽の外立(外に立つ)」。この二つは同一である。[terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. ](J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)


穴を為すものとしての現実界に享楽は外立する。C'est au Réel comme faisant trou, que la jouissance ex-siste. (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

外立の場は常に穴と相関関係がある。la position d'une ex-sistence est toujours corrélative d'un trou (J.-A. Miller LE LIEU ET LE LIEN, 9 mai 2001)


排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel   (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne,  3 JUIN 1987)



ラカンの穴とは、フロイトの引力であると同時にトラウマという意味を持っている。ここでのトラウマとは、反復強迫する身体のリアルという意味である。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)