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2021年1月20日水曜日

主体の穴とシニフィアンの主体(マルクスとラカン)


現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


ーー《主体の穴 le trou du sujet》 (Lacan, S13, 08 Décembre 1965)


幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)


この全き空無[ganz Leeren]は至聖所[Heilige]とさえ呼びうる。我々は、その空無のヴェールをせねばならない、意識自体によって生み出される、夢想・仮象によって。何としても必死になって取り扱わねばならない何かがあると考えるのだ。というのは、何ものも空無よりはましであり、夢想でさえ空無よりはましだから。


damit also in diesem so ganz Leeren, welches auch das Heilige genannt wird, doch etwas sei, es mit Träumereien, Erscheinungen, die das Bewußtsein sich selbst erzeugt, zu erfüllen; es müßte sich gefallen lassen, daß so schlecht mit ihm umgegangen wird, denn es wäre keines bessern würdig, indem Träumereien selbst noch besser sind als seine Leerheit. (ヘーゲル『精神現象学』1807年、意訳)






ラカンは「主体の不在[l'absence du sujet]の場処を示すために隠喩を使い、詩的に表現した、《欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsions》(E666, 1960)と。すなわち、享楽の藪[la brousse de la jouissance]である。


享楽のなかの場は空虚化されている[où dans la jouissance une place est vidée]。この享楽の藪のなかの場は、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]が刻印されうる. (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008, 摘要訳)



「主体の穴/シニフィアンの主体」とは、ラカンの四つの言説のベースの「主人の言説」の左側にも示されている(本来、象徴界の穴と現実界の穴を区別して示すべきだが、ここでは煩雑になるので割愛)。






「主人の言説」は「主語の言説」と言い換えてもよいアスペクトを持っており、この相におけるS1の代表的なものは、一人称単数代名詞「私」である。そしてシニフィアンとは仮象である。



仮象はシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)



……………


ところで上の話はマルクスにもある。



一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される[der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. ](マルクス『資本論』第一篇第三節「相対的価値形態Die relative Wertform」)


このマルクスは次のラカンと同一である。


一つのシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年)



次のマルクスも下のラカンと同じ。


どんな商品も等価物としての自分自身に関連することはできず、したがってまたそれ自身の自然的外皮をそれ自身の価値の表現にすることはできないから、どんな商品も等価物としての他の商品に関連せざるをえない。Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn (マルクス第一篇第一章第三節「等価形態 Die Äquivalentform」)


すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(表象)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

シニフィアンは、それが言語の部分であるという限りで、他の記号と関連する一つの記号である。言い換えれば、二つ組で己れに対立する。le signifiant, en tant qu'il fait partie du langage, c'est un signe qui renvoie à un autre signe, en d'autres termes :  pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン, S3, 14 Mars 1956)



たぶんこういった相同性はヘーゲル起源なのかも知れないが、ヘーゲルにはほとんど無知なので挙げることはできない。


ラカンの斜線を引かれた主体はフロイトの自我分裂[Ichspaltung]にもひとつの起源があり、自我が身体と言語のあいだで分裂があるのと同様、商品も使用価値と交換価値のあいだの商品分裂があるのは明らかである。


なにはともあれ商品語と人間語は相同的なのである。


もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの価値である。われわれの商品としての交換がそれを証明している。われわれは互いにただ交換価値としてのみ互いに関係している。


Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. (マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)



この話に剰余価値を導入すれば、人間語と商品語の構造的同一性がより明確になる。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対表象されるのか? ーー使用価値である。 


Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant, mais est-ce que ce n'est pas là quelque chose de calqué sur le fait que, valeur d'échange… le sujet dont il s'agit, dans ce que MARX déchiffre, à savoir la réalité économique …le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage.   

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値[plus-value]と呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。 主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえない 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽[plus de jouir] と呼ばれるものである。


Et c'est déjà dans cette faille que se produit,  que choit, ce qui s'appelle la plus-value.   Ne compte plus à notre niveau que cette  perte.   Non identique désormais à lui-même, le sujet, certes ne jouit plus mais quelque chose est perdu  qui s'appelle le  « plus de jouir ».   (Lacan, S16, 13 Novembre 1968)



マルクスならこうである。



そしてラカン。





いくらか確認しておこう。


私が対象aと呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche (Lacan, AE207, 1966年)

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。〔・・・〕実に私が剰余享楽と呼ぶものは、剰余価値であり、マルクスの悦、マルクスの剰余享楽である。


la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. [...] C'est bien le cas de vérifier ce que je dis du plus-de-jouir. La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽喪失 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)




したがってラカンさらには柄谷は次のように言うのである。



症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。


la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18,16 Juin 1971)


広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



なおマルクスのフェティッシュと剰余価値は、ラカンのボロメオの環を援用すれば、たぶん次のように置けるのではないか、といくらかまだ疑いつつも私は考えている(参照)。







なおラカンは、現実界の穴[le trou du Réel]と象徴界の穴[le trou du symbolique]を次のように示した。





穴語彙の基本的ヴァリエーションは以下の通り(参照)。