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2021年1月21日木曜日

未来の他者に対する虐待者

 次のものは浜崎洋介という右系文芸評論家の図らしい(東浩紀のRTから)。



なぜラディカル左翼が示されていないんだ等ゴネルことはできるが、よくまとまっているのは確かでしかも図に動きのがあるのがいい、と言っておこう。かつての似非リベラルが現在の自らのポジションの言い訳をするにはとっても役に立つよ、アズマのたぐいのさ。



少し前、丸山真男の図を眺めていてこれを現在に活かすにはどうしたらいいんだろうと考えていたのだが、浜崎図は似てないことはないな。





「求心的」を右翼にして、「遠心的」を左翼にしたらかなり似ている。もっとも「民主化」という語を通念としての意味とは別の意味合いで捉える必要があるが(参照)。


以下、丸山真男の「個人析出のさまざまなパターン」から引用しよう。この論は私の手元にはなく、ネット上から拾ったものである。

まず一般的説明。


この図で水平軸は、個人が政治的権威の中心に対していだく距離の意識の度合を示し、ある人間が左によれば、それだけ遠心性 centrifugality が増す、つまりそれだけ政策決定中枢と一体化する傾向が減じる。こうして自立化と私化とは、政治的権威に対する求心的態度 centripetalを示す民主化および原子化とは逆に、軸の左方におくことができよう。これに対し、垂直軸によって個々人がお互いの間に自発的にすすめる結社形成の度合を示すことができよう。この図では垂直軸に従って上の方に来るのは、結社形成的な associative 個人、政治的目的にかぎらず多様な目的を達成するために隣人と結びつく素質の備わった人である。これの下の方に来るのは非結社形成的な dissociative 個人であり、仲間との連帯意識はより弱くなる。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」1960年)



次に個別の注釈。


私化の場合には、関心の視野が個人個人の『私的』なことがらに限局され、原子化のそれのように浮動的ではない。両者とも政治的無関心を特徴とするが、私化した個人の無関心の態度は、自我の内的不安からの逃走というより、社会的実践からの隠遁といえよう。こうして彼は、原子化した個人よりも心理的には安定しており、自立化した個人に接近する。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」)


要約すれば、自立化は遠心的・結社形成的、民主化は結社形成的・求心的、私化は遠心的・非結社形成的、原子化は非結社形成的・求心的、である。〔・・・〕


右に述べたように、自立化した個人は遠心的・結社形成的であり、自立独立で自立心に富む。〔・・・〕このタイプと全面的に対立するのが原子化した個人で、求心的・非結社形成的で他者志向的である。このタイプの人間は社会的な根無し草状態の現実もしくはその幻影に悩まされ、行動の規範の喪失(アノミー)に苦しんでおり、生活環境の急激な変化が惹き起こした孤独・不安・恐怖・挫折の感情がその心理を特徴づける。原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義的リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。このような型の個人析出の噴出は、一般的には、ヒトラー直前のドイツが典型的にそうであるように、近代化の高度の段階の現象であるが、例えば多くの発展途上地域の場合のような近代化初期の局面でも、都市化した個人の間にはみとめられる。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」)



そして原子化、私化、民主化、自立化のあいだには移動があるとしている。


原子化して不安定な個人が、一定の生活の基礎に根をおろしてヨリ心理的に安定した私化した個人に変化し、もしくは隣人との連帯を意識した民主化した個人に変化するというような迂路を通りながら、自立性を確立するにいたらないとは限らない。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」)


この丸山を仮に受け入れて言えば、ネトウヨは「原子化」のカテゴリーに入るだろう、ーー《原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。》

だが最近、ネトサヨはもちろん、さらにはリベラル左翼インテリでさえ「原子化」に見えるヤツが多い。ネットでチャチな村祭りをしているようにしか見えない。少なくとも丸山が示している「自立化」には到底置き難い。

さらに連中は未来なんかにはほとんど向いてなくて、過去にあったと夢想しているらしい「正しき」既存秩序を志向しているように見える。この意味では現在のリベサヨは、キャベツ頭による「民主化」というもんなんだろうか?


ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)


ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)


未来に少しでも目が向いてたら当然、身近な「構造自体に刻印されている致命的な亀裂」の日本的症例の典型、「世界一の少子高齢化で借金だらけの日本」の未来のありようを思考するはずだ(参照)。だが現在のリベサヨからはそれがほとんど見えてこない。




このような構成比であり、
2040年には2000年時点の税金と社会保険料の概算倍額払わないと、借金の雪だるまは無くならない。




要するに既存システムを維持しようとしたら打つ手は次の施策しかないのは、まともな経済的知がある人のあいだの10年来のコンセンサスだ(もっとも小遣い稼ぎらしい、公衆にへつらった「まともでない」経済評論家がネット上にはウヨウヨしてるから厄介だ。さらにその連中が政権内にさえアドバイザーとして雇われているという奇妙奇天烈さがある)。



ーーこの2013年の提案ではもはや甘いということがある。75歳だな、年金支給年齢は。それがイヤだったら消費税30パーセントだ。これを正面から受け止めないと、日本という国は姥捨山アソシエーション国になっちまうぜ。

実際2040年に、70歳からの年金支給にしても2.1と、2020年の65歳にての比率(1.9)と変わらない。



要するに高齢者1人を支える労働人口が2人であるなら、現在の国民負担率(税金と社会保険料)ではまったく賄えず、借金は増え続けて国家破産かハイパーインフレの道にまっしぐらだ。



人がデータを中学生程度に見る力があれば、日本よりは少子高齢化度が過少なフランスの国民負担率以上に本来せねばならないのが即座に分かる筈だ。

しかしリベサヨインテリ連中がよくマガオで消費税下げろとか言うもんだよ。



要するに現在のリベサヨというのは「病人」なのであって、中学程度の算数もしてみようとはせず、世界のデータにも選択的非注意を払って、タダひたすら弱者擁護や庶民の味方の仮面をかぶって「善人」になることに専念したいらしき「虐待者」だ。

現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff は「財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」と呼んだ。


人はみな、消費税下げろ派を未来の庶民に対する虐待者と呼ばねばならない。



世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



…………

ところで自立化の人、80歳の柄谷行人は『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(2021年1月25日発売予定)というのを出すらしい。

本書は、アソシエーショニスト運動の可能性をあらためて示すものである。かつてのNAMの開始以降の私の著作はすべて、この運動と深い関わりがある。その意味で、私はこの20年間、NAMについて考え続けてきた、ともいえる。


コロナ疫病の流行によって、私たちは未経験の困難に直面している。そのなかで、アソシエーショニスト運動が、見直されてきているのではあるまいか。生産、流通、金融などの現在の諸システムの問題点が浮き彫りになったためだろう、多くの人が自給自足や地域のネットーワークなどの重要性に気づきはじめたようだ。


私は、未来の社会は「向こうからくる」と言ってきた。これは、自分の意図や企画を超えて起こる、という意味である。コロナをきっかけに、困難とともに、新たなアソシエーションの可能性が向こうからきた、といえるのではないだろうか。(柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』「序文」より要約)


どうだい、「原子化」の諸君、ツイッターでバカ話をガヤガヤやっている暇があるなら、少しだけでもこっちのほうに靡く力をつけたら? 「私化」気味のボクもすこしは上に移動したいね。でも「民主化」だけは御免被るよ。



浅田は20年前、ニュー・アソシエーショニストのシンポジウムで、とても巧みに次のように言っている。


浅田彰)資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかないーーこのように資本主義的なシニシズムと新カント派的なモラリズムがペアになって、現在の支配的なイデオロギーを構成しているのではないかと思うんです。(「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」シンポジウム 2000.11.17ーー浅田彰・柄谷行人・坂本龍一・山城むつみ『NAM生成』所収)


ーーこう言った浅田がこの20年間に何をやってきたのかは不問に付しておこう、とはいえこうは引用しておこう。



柄谷行人は N A Mから反原発デモにいたる過程で六〇年安保闘争へ先祖返りしたようにも見える。その流れは『批評空間 』が創刊された時点からすでに始まっていたのかもしれない。ただ、ぼく自身は、『批評空間 』が担うべき課題は、署名だデモだといった政治運動 (それはそれでむろん重要だけれど )とは異なる理論的・批評的次元にあるはずだと考えていました。冷戦が終結し、新自由主義という名の下に 、プリミティヴな原型に回帰した資本主義が世界を覆いつくそうとしている。ケインズ主義的妥協の下で労働組合に支えられていた労働者も、マルチチュードへと還元され、そこここでゲリラ戦を展開するほかなくなっている。むろんそれは意味のあることだし、そうしたゲリラ戦の連接を図ることも重要だろう。

しかし 『批評空間 』のなすべきことは、たとえエリート主義と言われようが、アドルノのように「グランドホテル深淵 」に籠っていると見られようが、やはり批判的知性を再構築することだろう、と。この点について柄谷行人と議論を詰めたことはないんですが、「政治に回帰する柄谷とアドルノ的エリート主義に回帰する浅田が呉越同舟で 『批評空間 』に同居していた 」という見立てがあるとすれば、「そう見えたとしてもしかたないだろう 」と答えるべきかもしれません。 (浅田彰2016 年:インタビューゲンロン)


話を戻そう。


現在のリベラル左翼は、チョロチョロした人間主義的モラリズムの弥縫策派ばかりだ。連中は自ら気づかないまま「凡庸な右翼」に成り下がっている。


柄谷は当時のNAM運動に失敗したが、その後も継続的に資本主義を根底から批判し続けている。日本には批判的知性をそなえたまともな左翼は柄谷ぐらいしかいない。


M-M' (G─G′)において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)


この柄谷の言っているのが、前回少しだけ示した資本の自動的フェティッシュだ。





利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。


 Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕

ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 [begriffslose Form]、生産諸関係の至高の倒錯と物件化[Verkehrung und Versachlichung]、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化[ die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.]である。


 Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 Veräußerlichung des Kapitalverhältnisses usw.)


柄谷はこの「自動的フェティッシュ」を「資本の欲動」とも言ったが、ラカンの資本の言説とは事実上、この資本の享楽だ。



危機は、主人の言説ではない。そうではなく、資本の言説である。それは、主人の言説の代替であり、今、開かれている。


la crise, non pas du discours du maître, mais du discours capitaliste, qui en est le substitut, est ouverte.


私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だと。反対に、狂気じみてクレーバーな何かだ。そうではないだろうか?


C’est pas du tout que je vous dise que le discours capitaliste ce soit moche, c’est au contraire quelque chose de follement astucieux, hein ?

狂気じみてカシコイ。だが、破滅に結びついている。De follement astucieux, mais voué à la crevaison.


結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…


Enfin, c’est après tout ce qu’on a fait de plus astucieux comme discours. Ça n’en est pas moins voué à la crevaison. C’est que c’est intenable. C’est intenable… dans un truc que je pourrais vous expliquer… 

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)自らを貪り食う。


parce que, le discours capitaliste est là, vous le voyez… [indica la formula alla lavagna]… une toute petite inversion simplement entre le S1 et le S… qui est le sujet… ça suffit à ce que ça marche comme sur des roulettes, ça ne peut pas marcher mieux, mais justement ça marche trop vite, ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume.


さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…。Maintenant vous êtes embarqués… vous êtes embarqués,…

 (Lacan, Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)


この時代はみんな資本の言説の掌の上で踊る猿かもしれないがね。


ラカンは言説を「社会的結びつき lien social」と定義しているが、これはまさにマルクスの「社会的関係」だ。ーー《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。》(マルクス『資本論』第一巻「第一版序」1867年)。要するに、社会のなかで置かれた各自のポジションによって、《彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es》(『資本論』)


以下の4つのヴァリエーションはラカンは示していないが、人は、消費者の言説、倒錯の言説、市場の言説、大衆の言説のどれかだろうな。




S1は市場ではなくカネとしてもよい。たとえば大衆の言説は右下のカネS1に突き動かされた社会的関係である。冒頭に示した誰かさんが言っている「人生経験を経て云々」というのは、このプロレタリアの言説のことさ。


新自由主義時代における米国のバイブル曰く、

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。お金が相互取引の手段となることを止めたら、人間は他の人間の道具になります。血と鞭と銃、あるいはドルです。あなたがたは選択しなさいーー他の選択肢はありません。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』1957年)


もともと根のところではこうだったのかもしれないが、資本の言説の時代はことさらそうだ。


社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。…これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire, …C'est à quoi MARX a paré, a paré d'une façon incroyable.(LACAN La troisième 1-11-1974 )


ーー《自由、平等、所有そしてベンサム![Freiheit, Gleiheit,Eigentum und Bentham!]》(マルクス『資本論』第一巻)


ペンサム! というのは、両当事者のどちらにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。そして、このようにだれもが自分自身のことだけを考えて、だれもが他人のことは考えない。(マルクス『資本論』第一巻)